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(1) サンダー・L. ギルマン著, 管啓次郎訳
『ユダヤ人の身体』 (青土社, 1997年)

(2) サンダー・L. ギルマン著, 鈴木淑美訳
『フロイト・人種・ジェンダー』 (青土社, 1997年)


 ユダヤ系ドイツ人医師ジャック・ヨーゼフ(1865-1934)は、「鼻の美容整形手術の父」として知られている(1, pp.252-260)。彼がベルリンで整形外科を開業して間もない1898年、典型的な「ユダヤ鼻」に悩んでいた青年の鼻を「切り詰め」、真っ直ぐにしたのがそのきっかけであった。こうしたヨーゼフの手法は、19世紀末のドイツとオーストリアで、美容整形の大ブームを引き起こしたのである。もちろん、その顧客の大半はユダヤ人であった。彼らは、自らに刻印された「ユダヤ性」を消すことに必死になっていたのである。

 また、そのヨーゼフ自身、自らの顔に刻みつけられた決闘の傷跡を自慢していたのであった。当時の学生たちにとって、決闘を行い、サーベルによる傷を顔に残すことは、男として、そして市民としての証を自らの身体に刻印することであった。劣った肉体ゆえに、兵士として使い物にならないと見なされていたユダヤ人にとっては、なおさら決闘が必要であった。彼らは、徴兵検査に合格しうる身体を獲得し、自らが「真の市民」であることを証明する必要に迫られていたのである(1, pp.70-78)。

 しかしながら、たとえ「完璧な身体」を持ち、金髪と青い眼を備えたユダヤ人であったとしても、彼(彼女)の不安はなくならない(1, p.249)。キリスト教の洗礼を受けようとも、いかにドイツ人に「同化」しようとも、ユダヤ人は「病んだユダヤ人」であり続けるとされていたからである。結局のところ、ユダヤ人は、自らの身体を忌み嫌いながら生き続けることを余儀なくされていたのであった。

 だが、ユダヤ人に対するこうした「劣等性」の言説は、1870年代に始まったものであった。この辺りを境にして、ユダヤ人と非ユダヤ人との差異は、宗教よりもむしろ、身体的なもの、あるいは人種的なものとして把握されるようになったのである。ドイツ人ジャーナリストのヴィルヘルム・マル (Wilhelm Marr) によって生み出されたとされる「反セム主義 (Antisemitismus)」という言葉は、まさに、新しい時代の「反ユダヤ主義」を指し示す用語として登場したのであった。

 宗教的な「反ユダヤ主義」から人種的な「反セム主義」へ。これが、ギルマンの二著に通底する第一のメッセージであろう。彼は、19世紀後半に変質した「ユダヤ性」の言説に着目し、「ユダヤ的身体」のイメージが構築されていく過程を丹念に追っていく。例えば、ユダヤ人が精神病になりやすいことを「証明する」統計(2, p.166-170)、ユダヤ人を「劣等な黒人」と位置づけ(1, pp.240-245)、ユダヤ人の間で同性愛の発症率が高いこと(2, p.272)を示す人種科学、等々である。

 では、ユダヤ人自身は、こうした言説に対してどのような反応を見せたのであろうか? この問いに対する回答が、ギルマンによる第二のメッセージである。彼は、特にフロイトに焦点を当て、ユダヤ人科学者がいかにして自らの「ユダヤ性」に向き合っていたのかを明らかにしている。  

 フロイトが「反セム主義」に悩まされ、自らの「ユダヤ性」を意識するようになったのは ―― 彼自身の説明によれば ―― 医学部時代であったという(1, pp.197-202)。ユダヤ人が他者よりも「劣っている」ことを当時の「科学的知識」から理解した彼は、自らの「ユダヤ性」を克服するために、「狂気」や「特殊性」の根源を探究し始めたのであった。当時の社会においては、人間の「病理」をユダヤ人に背負わせる言説が流布していたが、彼は、それを乗り越える理論、すなわち「精神分析学」を打ち立てていったのである。言い換えれば、彼は、人間の「創造的なもの」「精神病理的なもの」「性的なもの」のすべてを「ユダヤ性」から説明するのではなく、性的衝動という人類普遍の問題として理解したのであった。もちろん、フロイトの精神分析を生みだした要因として、世紀末ウィーンの「抑圧的な」性道徳を挙げておく必要はあろう(1)。だが、フロイトが抱えこんでいた「ユダヤ性」を理解しなければ、彼があそこまで性的衝動にこだわり続けた理由を説明できないように思われる。  

 それにしても、である。世紀転換期において、フロイトをも巻き込むような「ユダヤ的身体」の言説が流布したのは何故であろうか? この点については、ギルマンは明確に説明していないが、急激な都市化や「社会ダーウィニズム」への反作用として考えることはできるだろう。当時の社会においては、増大する不安感を解消するために、女性やユダヤ人といった「劣性の異者」が設定され、そのことによって「アーリア系市民(男性)」の優越性が「科学的」に証明されていったのである(2)。この第三の論点、すなわち「ユダヤ的身体」を想像させる構造的な要因について、もう少しまとまった説明があれば、ギルマンの二著はいっそう立体的なものになったと思われるのだが、それは欲張りな注文であろうか?


 2002年6月12日記

 

  1. この点については、スタンリー・キューブリックの遺作『アイズ・ワイド・シャット』(1999年, アメリカ)が ―― 皮肉なことに ―― 陳腐な雰囲気を醸し出しているところから伺い知ることができよう。この作品は、フロイトの同時代人であり、「精神分析的感覚」を持ったアルトゥーア・シュニッツラーの『夢小説』(岩波文庫『夢小説/闇への逃走/他一篇』所収)を映画化したものであるが、舞台が20世紀末のニュー・ヨークに設定されているために、違和感が生じてしまっている。現代における道徳観は、キューブリックの感覚を越えて先に行ってしまったということだろうか? <戻る>
  2. 女性の位置づけについては、シンシア・イーグル・ラセット著, 上野直子訳, 富山太佳夫解題 『女性を捏造した男たち ―― ヴィクトリア時代の性差の科学』 (工作舎, 1994年) が参考になる。また、「ダーウィニズム」との関連では、ルーシール・B. リトヴォ著, 安田一郎訳 『ダーウィンを読むフロイト ―― 二つの科学の物語』 (青土社, 1999年) が興味深い。<戻る>


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