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Svenja Goltermann, Korper der Nation:
Habitusformierung und die Politik des Turnens 1860-1890
,
Gottingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1998.

スヴェーニャ・ゴルターマン
『国民の身体 ―― ハビトゥスの形成と体操(1)の政治 1860-1890年』


 最近のドイツ史学 ―― と言ってもここ20年ぐらいの話であるが ―― においては、幾つかの新しい流れが出てきているようである。

 第一の流れは、「ドイツ特有の道(Sonderweg)」論に対する批判である(2)。第二次大戦後、ナチズムという「破局」に至った原因がドイツ社会の「特殊性」に求められ、「西欧」に比してのドイツの「後進性」が強調されるようになっていたが、そうした議論の立て方が1980年代に入ってから批判されるようになったのである。

 例えば、イギリスやフランスの発展過程を「正常」と見なし、無批判にモデル化してしまう危険性が指摘されている(3)。つまり、「特有な道」という概念は「正常な道」の存在を前提にしたものであり、ドイツを「歪んだ」ものとして把握する一方で「西欧」をいたずらに理想化してしまう、というのである。また、ドイツ社会における市民層の意外な(?)強さと諸文化の「市民的性格」を指摘することにより、ドイツを「特殊な事例」とするのではなく、ヨーロッパ全体において見られる現象の一類型として把握し直そうという動きも出てきている(4)。むろん、こうした潮流には、「自虐的」な歴史観よりも誇りうる「国民史」を希求するドイツの保守勢力を喜ばせてしまうという危険性がつきまとっていたが、ドイツ史をナチズムの経験からいったん切り離して考えさせる、という点では評価できるものであった。

 第二の流れは、ドイツ第二帝政期におけるバイエルンやプロイセンといった個別邦国(Einzelstaat)の多様性に着目したものであり、当時のドイツ・ナショナリズムを集権的なものではなく連邦的(foderativ)なものと見なし、その多文化的側面を強調する動きである(5)。この見方によれば、帝国創建(1871年)以前において存在していた各邦国を単位とする連邦的ナショナリズムは、ドイツ国家の統一によって多少の変質を被りながらも、完全に消滅することはなかったということになる。実際、ベルリンを首都とする帝国が成立した後も、(1) 連邦参議院(Bundesrat)をはじめとする国家の連邦的構造、(2) 国民的経済空間が形成される一方で地域的経済圏が残存していたこと、(3) 帝国議会が存在したにもかかわらず帝国レヴェルでの政党が未成熟であったこと、(4) 個別邦国を単位とする文化とそれをシンボライズする祝祭が行われ、多数の記念碑が設置されたこと、といった連邦的側面が見いだされるのである。こうした点に光を当てる新しい流れは、「上からの」ナショナリズムという単純なドイツ史理解を修正するうえで大きな意味を持っていると言えよう。

 ずいぶんと前置きが長くなってしまったが、今回紹介するゴルターマンの著作は、こうしたドイツ史学の新しい流れを踏まえた作品であり、従来とは異なる新世代の体操史研究として評価できるだろう(6)。彼女は、ナショナリズムをハビトゥス(7)として捉え、そのハビトゥスが体操運動において形成されていく過程を実証的に明らかにしている。

 彼女は、ドイツ体操家連盟の機関誌や祭典の記録、警察資料などを駆使しながら、体操運動の中で使われていた統一(Einheit)、調和(Eintracht)、団結(Einigkeit)、自由(Freiheit)、謙虚(Bescheidenheit)、男らしさ(Mannlichkeit)といった概念に着目し、その変容を丹念に追っていく。中でも本書において重要視されているのは「自由」という概念である。彼女によれば、体操運動における「自由」は ―― それほど明瞭な形ではないにせよ ―― 帝国創建(1871年)を境として反体制的な特徴を失い、保守的な色彩を濃くしていったという。例えば、1885年にドレスデンで開催された第七回体操祭典の記録においては、「体操運動はこれ以上のドイツの自由な発展を目的としてはいない。体操運動が目的とするのは、有能な国家公民(Staatsburger)を育成する予備学校、および養成学校となることである」と書かれていたのであった(255-256)。1848年革命の時点においては「危険分子の集まり」とまで見られていた体操運動は、帝国創建以降、皇帝直々の祝電を賜り、王族の「ご臨席」という栄誉に浴する体制内的な組織へと変容したのである(83-85, 230-231)。

 しかしながら、本書自体が示唆するように、体操運動において発信されていた「自由」の概念は、1850年代の段階ですでに変化し始めていたのではなかろうか(94f.)。急激に進む都市化と産業化の中で、ドイツ社会、あるいはドイツ国民(Nation)が堕落していく、という危機感が芽生え、真正なるドイツ人(男)を復活させねばならないという議論がこの時すでに高まりつつあったのである。体操運動の指導者たちは、本当の人間(男)は、喫茶店(Conditorei)や劇場、ビアホールでは育成され得ないと主張し、享楽欲、怠惰、利己心、臆病、といった否定的側面を助長するこうした「近代文化」をばっさりと切り捨てたのであった(138-139)。そして、体操場こそが真の人間(男)を育成する場であると豪語し、共同体に奉仕することが真の自由、すなわち「道徳的自由」につながると主張したのである。もちろん、1871年における帝国創建は、体操家をはじめとするドイツ人のナショナリズムに重大な影響を与えたことは間違いない(8)。だが、体操運動における「自由」概念の変容を説明するためには、メンバーシップの変化や社会的な構造変動といった点にももう少し目配りする必要があろう。

 もう一点、本書を読んでいて気になったのは、ハビトゥスという概念の有用性である。著者は、組織の機関誌や記録など、主に体操運動のエリートによって書かれたものを通して分析を進めているが、果たしてそれだけでハビトゥスの有り様が分かるのだろうか? 言うまでもなく、一般の会員一人一人が何を考えていたのか、という点を検出することは不可能であり、評者自身もその点は重々承知しているつもりである。しかしながら、主としてエリートによって書かれたものを情報源とする以上、そこから安易にハビトゥスの内実を読みとろうとする態度には疑問を呈さざるを得ない。いっそのことハビトゥスという概念を使わずに分析を行った方が本書の価値は増したのでは?、という気がしたが、それは言い過ぎであろうか? 繰り返しになるが、本書は体操運動における諸概念の変容を明らかにした手堅い実証研究であり、その点だけでも評価に値する著作である。だが、ナショナルなハビトゥスの変容を解明するとなると、本書において用いられた資料だけでは不十分であろう。その意味では、もう少し地味(?)な路線に徹した方が良かったと思われるのだが如何だろうか。


 2002年9月25日記

 

  1. ドイツ体育史においては、「Turnen」という言葉を「体操」と訳さずに「トゥルネン」とカタカナで表記するのが一般的である。「Turnen」は日本語の「体操」という言葉では表現しきれないというのがその理由であり、評者もその点について特に反論するつもりはない。しかしながら、19世紀後半のチェコ社会においては、チェコ人がドイツ語でしゃべる際には、自民族の体操を「Turnen」と表現し、ユダヤ系の体操団体も「ユダヤ・トゥルネン協会 Judischer Turnverein」という名称を用いていたのであった。(ちなみに、当時における内務省の役人も、チェコ系体操団体であるソコルのことを「Der Sokol-Turnverein」と記述している)。この文脈においては、「Turnen」という言葉には、「ドイツ特有の」というニュアンスよりもむしろ、より一般的な「体操」という意味が込められていたと考えるべきであろう。ドイツ体操の創始者であるヤーンにしても、体操のドイツ性とそのオリジナリティを強調するために「Turnen」という言葉を使い始めたものの、非ドイツ系諸民族にとっての「Turnen」もあり得る、と主張したこともあり、その使い方は必ずしも一面的なものではない。また、日本語の「トゥルネン」は、ドイツ体操を示す専門用語としてすでに定着しており、チェコ人の「トゥルネン」やユダヤ人の「トゥルネン」といった表記に違和感を覚える向きもあろう。以上の理由より、ここでは差し当たり、「Turnen」を「体操」と訳すことにしたい。
     なお、日本語の「トゥルネン」については、有賀郁敏 「ベルリントゥルネン委員会の成立と啓蒙的プロパガンダ ―― 1850年代ベルリンの近代化とトゥルネン協会の実態」『立命館経済学』 43巻3号、18-39頁、1994年、特に19頁、註1、を参照。ヤーン自身の Turnen については、Dieter Duding, Organisierter gesellschaftlicher Nationalismus in Deutschland (1808-1847): Bedeutung und Funktion der Turner- und Sangervereine fur die deutsche Nationalbewegung, (Munchen, 1984), p.54, n.107. を参照。<戻る>
  2. この点については、例えば、ユルゲン・コッカ著、肥前栄一、杉原達訳 『歴史と啓蒙』 未来社、1994年、特に第七章「ヒトラー以前のドイツ史 ―― 『ドイツの特殊な道』をめぐる議論について」、あるいは、松本彰 「『ドイツの特殊な道』論争と比較史の方法」『歴史学研究』 543号、1-19頁、1985年、などを参照。<戻る>
  3. こうした批判の嚆矢となったのは、デーヴィド・ブラックボーン、ジェフ・イリー著、望田幸男訳 『現代歴史叙述の神話 ―― ドイツとイギリス』 晃洋書房、1983年、である。<戻る>
  4. 典型的な例としては、オットー・ダン著、末川清、姫岡とし子、高橋秀寿訳 『ドイツ国民とナショナリズム 1770-1990』 名古屋大学出版会、1999年、特に270-274頁、を参照。19世紀ヨーロッパにおける「市民性」を検討するうえでは、次の共同研究が興味深い。ユルゲン・コッカ編著、望田幸男監訳 『国際比較・近代ドイツの市民 ―― 心性・文化・政治』 ミネルヴァ書房、2000年。<戻る>
  5. 代表的なものとしては、Dieter Langewiesche, “Foderativer Nationalismus als Erbe der deutschen Reichsnation: Uber Foderalismus und Zentralismus in der deutschen Nationalgeschichte,” In Idem., Nation, Nationalismus, Nationalstaat in Deutschaland und Europa, (Munchen: C. H. Beck, 2000), pp.55-79. が挙げられる。<戻る>
  6. もちろん、新しい流れを代表するものとしてクリューガーの著作も挙げておく必要があろう。Michael Kruger, Korperkultur und Nationsbildung: die Geschichte des Turnens in der Reichsgrundungsara: eine Detailstudie uber die Deutschen (Schorndorf: Hoffmann, 1996). クリューガーについては、差し当たり、有賀郁敏 「ミヒャエル・クリューガーのトゥルネン史叙述にみる『権力論』」『立命館産業社会論集』 32巻4号、267-273頁、1997年、を参照。 <戻る>
  7. ブルデューのハビトゥス概念について、評者は依然として良く理解できていないことをここで告白しておかねばならない。ハビトゥスについて消化不良を起こしている以上、その概念を用いている本書についても評価を控えるべきとも考えたが、不十分な文章を示しておくことにも意味があると思い直し、「読書記録」としてここに掲載することにした。もし、この「書評」を見た方がいらっしゃるとすれば、その方には御海容をお願いする次第である。<戻る>
  8. この点については、Dieter Langewiesche, “‘fur Volk und Vaterland kraftig zu wurken...’: Zur politischen und gesellschaftlichen Rolle der Turner zwischen 1811 und 1871,” In Idem., Nation, Nationalismus, Nationalstaat in Deutschaland und Europa, pp.103-131, here pp.129-131. においても指摘されている。<戻る>


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