18世紀後半のヨーロッパにおいては、様々な分野の学者が人類の起源をインダス河とガンジス河の間に位置づけようと競っていたらしい(1)。中でも、ヘルダーは「母なるインド」のイメージを創出し、後世のロマン主義者たちに大いなる影響を与えたのであった。
こうしたインド起源説を言語学の面から補強する役割を果たしたのがイギリスの詩人で法律家のウィリアム・ジョーンズであった。サンスクリット語の学習を始めた彼は、1788年、それがギリシア語・ラテン語と近親関係にあることを「確認」し、ヨーロッパとインドが言語的に結びついていることを示唆したのであった。後に「インド=ヨーロッパ語族の発見」と位置づけられる出来事である。
そして、1836年、言語学者のアイヒホーフは、それより一歩も二歩も進んで次のように述べたという。
すべてのヨーロッパ人は東洋からやってきた。生理学や言語学から集められた証拠によって確証されているこの真理はもはや特別な証明を必要としない。...
また、当時のインド学とヨーロッパのナショナリズム、特にドイツ・ナショナリズムとの関連性についても指摘しておくべきであろう。例えば、サンスクリット語で「高貴なる人」を意味していた「アーリア人」という言葉は「インド=ヨーロッパ人」という意味を獲得し、最終的にはゲルマン人という「優秀な人種」を示す単語へと変容していったのである。その事実一つ取ってみても、19世紀のナショナリズムに関心を持つ者にとっては、当時の知識人が抱いていたインド・イメージは興味深い存在である。
だが実際のところ、ヨーロッパはインドに対してどのような眼差しを向けていたのだろうか? その疑問について示唆を与えてくれるのが、「インド・マニア」としてのヴァーグナーを扱ったスネソンの著書である。以下、その内容について簡単に見ていくことにしよう。
ヴァーグナーがインドとの邂逅を果たしたのは、1848年革命などでの挫折を経て生きる希望を失っていた1854年頃であったらしい(7f.)。ほぼ同時期にショーペンハウアーの『意思と表象としての世界』に接し、感動のあまりそれを五回も読み返していた彼は、当然のことながらショーペンハウアー的な理解、そして当時におけるインド学の水準を反映したインド・イメージを受容していくこととなる。例えば、1855年6月7日、フランツ・リストに宛てて書かれた長文の手紙では、キリスト教が本来仏教の一枝であるにもかかわらずユダヤ教の影響を受けて堕落したという当時の典型的な理解が語られている。それに対し、「崇高」な仏教は以下のように位置づけられる。
仏教においては、人間は、他の動物と同様、食欲と生殖欲という「生存への欲求=意志」を持つだけの存在であると規定されるが、人間自身は自分がその「意志」によって支配されていることに気づかない。だが、並はずれた能力を持った天才は、その「意志」から自らを解放し、外界を直に見ること(美的観照)ができる。しかしながら、その天才は、全ての生きとし生けるものが「生存への意志」に支配されたおぞましい存在であることに気づき、苦悩してしまう。その結果、天才は「生存への意志」を完全に否定し、「ニルヴァーナ」(涅槃)へと渡っていく。そうした天才=聖者の一人がブッダなのだ。[10頁〜14頁にかけて引用されている手紙を評者なりに要約したもの]そして、天才である作曲家は、外界を直視し、それを音楽の形で写し取ることができるとヴァーグナーは考えたのであった(68-69)。妻コージマの日記(1870年)に記されたところによれば、ヴァーグナーはブッダが説いた輪廻転生の教えを伝えることができるのは音楽だけであると述べたという。実際、輪廻という因果の連鎖は、ライトモチーフ(示導動機)と想起を伴うヴァーグナー特有の音楽構造において表現されているのであった。つまり、彼は、予感(Ahnung)と回想(Erinnerung)のモティーフによって時間と空間を越え、未来、現在、過去を舞台上で共時的に再現する技法を創りだし、活用したのである(213頁, 訳注[79])。
だが、ヴァーグナーのインド観は、彼自身のナショナリズムや反ユダヤ主義とどのようにつながっているのであろうか? また、20世紀に頂点に達したアーリア人の優越思想においては「インド的要素」はすでに消失してしまっているが、それは何故なのか? 疑問はつきないが、これらの点については評者自身が考えて行かねばならないのであろう。他日を期したいと思う。
2002年4月18日記
註