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シンシア・イーグル・ラセット著. 上野直子訳. 富山太佳夫解題
『女性を捏造した男たち ―― ヴィクトリア時代の性差の科学』
(工作舎. 1994年)


 1860年から61年にかけて、J. S. ミルは『女性の隷属』(邦題は『女性の解放』)と題する挑戦的な書物を執筆していた(p.10)。ミルによれば、女性が男性に従属していることは「それ自体誤り」であり、「それに代わる完全な平等の法則を打ち立て」ねばならないのであった。彼は、人間を形作るのは自然よりも文化なのだということを確信しており、男性の女性に対する優位も、所与のものではなく文化の産物にすぎないと考えていたのである。

 ミルを尊敬していたというチャールズ・ダーウィンは、この本を読んで「ミルは少し自然科学の勉強をした方がいいね」と思わず洩らしたらしい。19世紀後半においては、多少とも科学の知識があれば、女性が男性に比べて劣っているのは「自明の理」であった。それでもなお、女性の権利を推進しようとする者は、ミルのように科学の教えを頑迷に拒む人間として批判される運命にあった(p.23)。

 実際、ヴィクトリア朝時代の人類学者、生物学者、心理学者たちは、女性の劣性を科学的に証明するために多大なエネルギーをそそぎ込んでいた。その結果、女性は「発生上の異常」であり、「未発達の男性」である、という結論が導かれる(cf. p.101)。女性は男性よりも若くして成長が止まるために、下等で原始的な原型からの分化が進まないというのである。小さい身体、筋肉の未発達、髭の欠如、小さい脳、といった事実は、すべて女性の劣性を指し示しているのであった。

 19世紀の半ばに定式化された熱力学の第一法則(エネルギー保存則)もまた、女性に不利に作用したのであった(pp.139f.)。1900年に発表された論文「エンジンとしての人間の肉体」によれば、人間もまた第一法則に従う存在であり、蒸気機関と同じように、燃焼により燃料を酸化し、熱を運動へと変換し、廃棄物を出すとされていた。とすれば、出産という多大なエネルギーを必要とする女性が、男性と同じレベルで精神活動を営むことができるだろうか? そもそも、女性は男性よりも少食であり、その分、持っているエネルギーの総量も少ないはずであった。男性の優位を信ずる学者たちは、学問に熱中しすぎて体調を崩した若い女性の例を引き合いに出しながら、物理学や医学の見地から、知的活動はエネルギーの浪費、ひいては不妊症につながる、という警告を発したのである。

 それでは、何故、ヴィクトリア朝時代の学者の多くが、女性の地位向上を阻止することにこれほど躍起になったのであろうか?

 理由を一言で表現するとすれば、それは「不安」であろう(cf. pp.247f.)。19世紀の後半に流行した進化論は、人びとにバラ色の未来を提供する一方で、情け容赦のない生存競争への恐れを抱かせることとなった。文明人といえども、何かひとつ、事故なり遺伝上のミスがあれば、劣等人種の地位に落ち、下手をすれば獣の住む深淵へと突き落とされるのではないだろうか。彼らはこのように考え、進化の逆コース=退化を恐れたのであった。

 また、精神活動が物理的なエネルギーの一種とされたことも、人びとの不安に拍車をかけていた。精神が肉体と同じように物質的な作用にすぎないとすれば、人間の自立性は消滅し、個人の自由意志は否定されるはずであった。「人間とはなんと妙なる作品」というシェークスピアの感嘆の声は、科学の前にかき消されつつあった(p.257)。人間はもはや神の似姿などではなく、動物そのものなのだ。

 こうした状況の中で、女性は「鏡」の役割を担わされることとなる。男たちは、自分たちより「劣った」女たちを見ることによって、自分たちの優秀性を確認するのであった。言い換えれば、当時の女性像は、男たちの劣等感の裏返しであった。それを学者たちが、「科学的手法」によって証明し、男たちに安心感を提供したのである。

 20世紀末の科学水準から考えれば、女性の劣性を証明する為に用いられた「科学的根拠」がいかに胡散臭いものであったかは明らかである。だが、19世紀末の女性差別は、科学が未発達であったために克服できなかったのであろうか?   そうではないであろう。当時においては ―― 今でも多分にそうであるが ――、男性が優れているという結論が先に存在し、それを説明するために、後から科学が用いられたのであった。その意味では、自然科学が驚異的に発展した現在においても、同じような問題が発生する可能性はあろう。いや逆に、科学の「精度」が増している今日の方が、我々の逃げ場が閉ざされてしまう可能性は高い。ラセットによって書かれた本書は、フェミニズムの観点から書かれた「科学主義」への一種の警告として高く評価されよう。

 また、本書は、女性だけでなく民族の問題にもヒントを与えてくれるように思われる。19世紀の科学によって証明されたのは男性の優秀性だけではない。未開部族に対するヨーロッパ文明の優秀性、そして、ヨーロッパ文明における我が民族=人種の優秀性が盛んに唱えられるようになったのもこの時代である。さらに、新しく民族意識に目覚めた「歴史なき民族」もまた、自民族の存在意義を探し出し、自らの生存能力を証明しようと躍起になったのであった。その背景には、男性と女性の関係を規定していたものと同一の「不安」が存在していたはずである。

 2000年6月15日記


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