北へ向かう我が同胞たち、北へと飛翔する美しい隊列 勇敢な前衛部隊、その腕の中に飛び込んでいくソコル[タカ]の一群 そこは、飛び地となった祖国 しかし、愛に満ちた抱擁がソコルを待ちかまえている 我々が眼にするのは、我が祖国を守る燃え上がる炎 我が歩哨たち、そして、熱く煮えたぎる彼らの血潮 非常事態に勇敢にも立ち向かっていく彼ら そして強靱な頭蓋、引き締まる肉体 彼らこそが、我が祖国を守る歩哨 (テプリツェでのソコル祭典に捧げられた詩の一部。 出典:Slet zupy Krusnohorske v Teplicich 1896, Teplice, n.d., n.p.) |
1896年4月1日、テプリツェの郡知事(Bezirkshauptmann)は、聖霊降臨祭(5月23日〜25日)に予定されているソコル祭典の開催許可を出したのであった。その日程は以下のとおりである。
テプリツェ駅。2000年7月5日。 |
ところが、これがドイツ人側の反発を呼び起こし、ドイツ系新聞からの攻撃や公然たる反対活動が生じたのであった。ドイツ系議員のジークムントがこの件に関して帝国議会で政府質問(Interpellation)を行うという情報をある筋から得た郡知事は、4月13日、プラハの総督府に向けて、自分がなぜソコル祭典を許可したのかについて説明する文書を発送している。
彼はまず第一に、前年(1895年)にも同様の祭典がテプリツェ近くのドゥホフ(独語名ドゥクス)で問題なく開催された、という点を挙げ、ドイツ人の都市だからといってソコルの行事を禁止する理由にはならない、と主張している。また、第二のポイントとして挙げられているのは、テプリツェ市長の同意であった。郡知事は、ソコルに許可を出す前に、内々に市長に相談し、祭典の開催が法的に問題のないものであり、秩序を乱す可能性もないという点について確認を取っていたのである。第三は、街頭でのパレードを事前に禁止したことであった。郡知事は、「公共の平穏と秩序」を乱す可能性があるという理由で、事前に提出されたプログラムからパレードを削除するように求めたが、ソコルはその要求に不承不承ながら従ったし、集団での徒手体操や夕食会、コンサートといったその他の行事については何も問題がなく、「禁止する理由はどこにも見あたらない」のであった。
だが、その翌日の14日、ジークムントは予定通り、議場で政府質問を実行し、ソコル祭典を不許可にするように訴えたのであった。彼によれば、ソコル祭典はドイツ人を挑発するものであり、「テプリツェの完全なるドイツ的性格」を汚そうとする試みなのであった。しかも、聖霊降臨祭の時期には帝国ドイツから多数の観光客がやって来るはずである。そのような時期にソコル祭典が行われれば、ドイツ人とチェコ人の衝突が発生するのは「必至」であった。
こうなると、内務省も事態を放置することはできなくなる。早速、ウィーンからプラハ総督府に向けて文書が発送され、事実関係の詳細な調査を行うように指令が出されたのであった(4月19日)。
ところが、4月20日、ドイツ人が春祭り(Fruhjahrsfest)の許可申請をテプリツェ郡知事に提出したために、事態はより複雑なものとなった。チェコ人に対抗しようとする意図がそこにはあったのだろう。彼らは、ソコル祭典と全く同じ聖霊降臨祭の時期にイヴェントを企画し始めたのである。その件に関する報告は、翌21日にテプリツェ郡知事からプラハの総督に向けて提出されている。
さすがに同じ日にチェコ人とドイツ人の行事が重なるのはまずいと考えたのであろう。プラハの総督は、郡知事に対してソコル祭典の禁止を言い渡すように指示したのであった。だが、一度許可を与えたものを撤回すれば、チェコ人が反発するのは眼に見えていた。判断に窮した郡知事は、アドヴァイスを求めて、市長や市会議員、経済界の大物などを密かに訪問する。彼らの主張によれば、最も危険だと思われるのは、プラハなどから合計二千名余りのソコル・メンバーがテプリツェに集結する点であった。もし、祭典の参加者をテプリツェ・ソコルやテプリツェ・ソコルが属しているクルシュノホルスカー地区のメンバーに限定すれば、祭典の実施は可能ではないだろうか? そう考えた知事はソコルの代表者に打診してみるが、その答えは否定的なものであった。ソコルにしてみれば、チェコ人多数地域からのホストがいなければ祭典を行う意味が大幅に減じてしまうからである。
結局、ソコル祭典と春祭りの双方を禁止にすべきだという市長の意見が望ましいということで、彼らは合意したのであった。「両者痛み分け」ということでドイツ人のイヴェントを禁止しておけば、チェコ人の側も、祭典が禁止されてもそれほど文句を言ってこないであろう、という読みである。その点についてテプリツェは電話でプラハの総督府に伝え、5月3日の朝、市長や市会議員といった面々と共に、直接、総督と相談するためにプラハへと出発したのであった。
ソコルに関する内務省資料のサンプル(クリックすると内容を表示します) |
ボヘミア総督を交えた会談がどのように進展したかについては明らかではない。だが、5月6日にウィーンの内務省からプラハの総督府に送られた文書を見る限り、総督は両方のイヴェントを禁止するという案に同意したのであろう。ウィーンの内務省もまた、プラハの総督府に向けて出された返答の中で、「公共の平穏と秩序」を守るためにソコル祭典と春祭りの双方を禁止するという点に完全なる賛意を与えている。しかしながら、内務省にも幾ばくかの不安があったのだろう。文書の最後では次のように書かれている。当局の指示にチェコ人とドイツ人の双方が過剰に反発し、通常の措置だけでは事態を収拾できないと予想される場合には、テプリツェ郡知事がこれらの行事に対して禁止令を出すことをやめさせなければならない、と言うのである。
最終的にボヘミア総督がどのように判断したかは定かではない。が、前後関係から判断すると、どうやら、テプリツェ郡知事はドイツ人とチェコ人双方に与えていた祭典の開催許可を撤回しなかったようだ。プラハで発行されているドイツ系(古典)リベラルの日刊紙『ボヘミア』では、5月8日、春祭りへのドイツ人の参加が呼びかけられている。それによれば、古い温泉街であるテプリツェは、「進歩的で自由主義的なドイツ性(Deutschthum)の牙城」であり、祝祭の日には「祖国とドイツ(Deutschthum)の旗の下にテプリツェの住民が結集する」はずであった。「愛すべき同じ種族の同志たち」よ、参加せよ! というわけである。
ボヘミア最北部のドイツ人体操家の反応はもっと過激であった。この地区で発行されている『イェシュケン・イーザー体操地区公報』によれば、テプリツェでのソコル祭典は、「我がドイツ・ボヘミアの土地(Deutschbohmerland)」に対するチェコ人の「功囲」だというのである。そもそも、「スラヴの海」に接しているドイツ人の土地は、常にその「波」によって浸食される危険を抱えているのであった。言うまでもなく「ドイツ人体操家の水準はチェコ人のそれよりも上にある」が、「勇敢さという面においては、ドイツ人はチェコ人に遅れをとっている」のである。ドイツ人が「いつまでもいい加減であり、自らの義務を忘れたままになっていれば、ひょっとしてひょっとすればチェコ人が有利な状況を獲得してしまうかもしれない」。そんなことは、「決して、決して、あってはならない」のであった。ところが、ボヘミアにおけるドイツ人体操家は「余りにもバラバラになったまま」なのである。もちろん、彼らは全体としてドイツ体操家同盟(DT)の第15クライスを形成してはいるが、ボヘミア内部での地区同士での結びつきは「貧弱な」状態のままであった。チェコ人によって「繰り返される攻撃」を撃退するためには、何よりもまず、ボヘミア内におけるドイツ人体操家の団結が必要なのであった。
少々引用が長くなってしまったが、ここで話をテプリツェの事件に戻すことにしよう。5月11日、用心深い内務省の官吏は、プラハの総督府に向けて再度、文書を発送したのであった。テプリツェの郡知事が、ソコル祭典では会員たちがユニフォームを着用することを予定していると報告したのに関し、あくまでそれが必要と認められる場合の話ではあったが、公的な場におけるユニフォーム着用を禁止するよう厳命したのである。
ところが、思いもかけなかった事件がテプリツェのチェコ人とドイツ人に影響を及ぼしたのであった。同年5月19日、皇太子のカール・ルードヴィヒが死去したのである。翌20日、テプリツェ郡知事は、「特別な事態」を理由にソコル祭典に対する許可を撤回し、その中止を命じたのであった。
この件に関してチェコ人議員がウィーンの帝国議会で質問したのであろう。当時の首相バデニーは、当局の禁止措置はチェコ人に対する「嫌悪感(animosita)」が原因ではないと弁明している。彼の説明によれば、皇太子の死去が報じられてすぐにドイツ人側が春祭りの「自粛」を発表したことから、ソコル祭典だけを開催させるのは不都合だと当局が判断したのであった。ルートヴィヒの死去が聖霊降臨祭の直前であったということもあり、テプリツェ市民の大半はドイツ人側の「自粛」に気づかないかもしれない、と考えたのである。そんな時に、ソコルだけが祭典を行えば、自分たちが「不当」に扱われたと感じたドイツ人たちが問題行動を起こす可能性もある。そう考えた当局は、「やむを得ず」ソコル祭典の許可を撤回したのである。これがバデニーの説明であった。
だが、ソコル側はそれで諦めようとはしなかった。彼らは再度、プログラムを作り直し、6月13日(土)と14日(日)の予定で祭典を行う許可申請をテプリツェ郡知事に提出したのであった。6月3日午後のことである。ソコルから出された申請書を吟味した知事は、翌々日の5日、ボヘミア総督に向けて書類を提出する。その中で、知事は基本的に祭典の実施を認める方向で検討中、と報告している。彼が主張するには、ソコル祭典に関してドイツ系のマスコミが色々と「騒ぎ立てて」いるが、ドイツ人たちが再度、何らかのイヴェントを同じ日にぶつけてくるとは「考えられない」のであった。ただし、今回については祭典の示威的な性格を抑えるために、クルシュノホルスカー地区以外のソコルメンバーが参加することを禁ずる腹づもりであった。また、昼食会場のホテル「ネプチューン」から体操場までの間で予定されていた楽隊付きのパレードも「治安上の理由」から認めない方針であった。さらには、テプリツェの各ドイツ系結社に対し、住民を刺激しないように働きかけるという気の使いようである。
さて、こうしたテプリツェ郡知事の判断に対し、プラハの総督府、そして、ウィーンの内務省はどのように反応したのであろうか? 結果として、再度計画されたソコル祭典も実施されなかったことを考えると、上層部がテプリツェ郡知事の判断を認めなかったのかもしれない。あるいは、ソコル側が知事から提示された条件に不満を持ったために、最終的に許可をもらえなかったという可能性も考えられよう。だが、残念なことに、その後の展開を指し示すような資料については、今のところ、筆者は見つけることができていない。また、テプリツェやプラハでの世論の動向を見る手がかりとなる日刊紙についても、今のところチェックできていない。実は、今回のソコル視察においては、プラハの国立図書館でこの時期の『ボヘミア』や『ナーロドニー・リスティ』を閲覧するつもりだったのだが、運の悪いことに、この図書館は7月一杯、閉館していたのであった。図書館の状況を事前にチェックしなかったのは筆者のミスであったが、いずれにしても残念極まりない話である。