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9.「我がボヘミアの森」への想像力


チェスキー・クルムロフ

南ボヘミアにおけるドイツ人の中心都市であったチェスキー・クルムロフ(独語名クルマウ、地図11)、1998年5月9日撮影。

 テプリツェなどの北西ボヘミア地域に比べれば、これから紹介する南ボヘミアでは、ドイツ人とチェコ人の関係はそれほど悪いものではなかったようである。そもそもこのあたりではドイツ人の絶対数が少なく、彼らの居住地域の多くが「言語島(Sprachinsel)」と呼ばれる飛び地を成していたからであろうか。それとも、この地域の大部分が加速する産業化の流れから取り残されてしまったためであろうか。その辺の事情はよく分からない。だが少なくとも、ビールで有名なチェスケー・ブヂェヨヴィツェ(独語名ブドヴァイス、地図10)の事例(1914年)は紹介しておく価値があるだろう。この街は、ボヘミア領邦では唯一、チェコ人とドイツ人の政治的な「和解(Ausgleich)」が成立した都市なのである。

 1910年時点での国勢調査では、16,903名がドイツ語を、27,309名がチェコ語を日常語として使うと答えているから、ブヂェヨヴィツェはチェコ人が過半数を占める都市であったと言える。ところが、市議会では第一次大戦が終わるまで一貫してドイツ人が過半数を維持していたことを考えると、社会の中ではドイツ人が圧倒的に優位な地位を占めていたのであろう。ちなみに、ボヘミアのチェコ人多数都市において、最後までドイツ人が市議会の多数派であったのはこの街だけであった。とすれば、ブヂェヨヴィツェにおいて「和解」が成立した意義についても、あまり強調しすぎてはいけないのかもしれない。確かに、この街の市長であったドイツ系のヨーゼフ・タシェク(Josef Taschek)は、市議会で和解案が採択された1914年2月、「ブヂェヨヴィツェのアウスグライヒ[和解]は、[ボヘミア]領邦全体でのアウスグライヒへの前触れであり、先駆けとなるに違いない」と表明している。だが、それは、両ネイションの平和的な関係を希求するという理想主義の表れではなく、どっちにしても我がドイツ人の優位は揺るがないという余裕の表れだったのかもしれないのである。
チェスケー・ブヂェヨヴィツェ

チェスケー・ブヂェヨヴィツェにおけるソコル・フス地区主催の体操祭典<パレード>、1903年8月15日〜16日、出典: Sokol, 29-9, 1903, p.196. なお、この祭典と同じ日程、同じ場所で、ドイツ系の体操協会が地区体操祭典を行っている。本文参照。

 いずれにせよ、ここで採択された案が先駆的な内容を持っていた点は否定できまい。もし、この「アウスグライヒ」が実現すれば、有権者名簿や学校区がネイション毎に分割され、市議会、郡議会(Bezirksvertretung)、領邦議会、帝国議会の各選挙、そして商工会議所においても、ドイツ人枠とチェコ人枠が設定されるはずであった。また、ウィーン政府からの反対があったために交渉の途中で削除されてはいるが、このプランの中には、ネイション同士の争いを解決する専門の仲裁裁判所(Schiedsgericht)を設置する計画も含まれていた。だが、世界大戦の勃発によって1914年7月に領邦議会が停止されたために、領邦法による実現を前提としていたこの「アウスグライヒ」は日の目を見ることなく終わったのである。

 7年余りの交渉期間を経てようやく「和解」案を採択したブヂェヨヴィツェ。だがそれは、この街がネイション同士の対立と全く無縁であったということを意味するわけではない。例えば、1909年8月29日に行われた「ボヘミアの森」ドイツ人同盟(Deutscher Bohmerwaldbund)の創設25周年行事が挙げられる。この日、2000名以上のドイツ人が街の中心部でパレードを行っていたところに、約200名の若いチェコ人労働者が「乱入」したのである。後者が「我が故郷は何処に」(現在のチェコ国歌)や「我がスラヴ人」といったネイションの歌を歌い始めると、前者が「ラインの守り」を歌ってそれに対抗し、辺りは騒然とした雰囲気に包まれたのであった。
チェスケー・ブヂェヨヴィツェ

チェスケー・ブヂェヨヴィツェにおけるソコル・フス地区主催の体操祭典<集団体操>、1903年8月15日〜16日、出典: Sokol, 29-9, 1903, p.196.

 1903年8月15日から16日にかけてソコル・フス地区(Zupa Husova)による体操祭典が行われた際にも、ドイツ系自由主義派のマルシェ・ヴルタヴァ体操地区(Maltsch-Moldau-Gau)が全く同じ日程で祭典を開催していたのであった。ソコル側の祭典では、ユニフォームを着用した4000名の会員によるパレードと1400名の会員による集団体操が行われたのに対し、ドイツ側の参加者はわずかに43名。「全くお話にならない」状態であった。ドイツ側のマルシェ・ヴルタヴァ地区は祭典を「中止し」、すぐさま「ドイツ・ハウス(Deutsches Haus)」の中に「逃げ込んでしまった」のである。

 だが、ソコル側のこの説明は大げさと言わねばならない。この時、ブドヴァイス体操協会(ドイツ系)を始めとする自由主義派の団体は、「アーリア化」してしまった「ボヘミアの森」地区を脱退し、マルシェ・ヴルタヴァという新しい地区を1902年に結成したばかりであった。しかも、全体としてはフェルキッシュな体操団体が圧倒的に優勢だったのである。少数派であったマルシェ・ヴルタヴァ地区の祭典がソコルに太刀打ちできなかったからといって、それをドイツ人全体に対するチェコ人の勝利であるかのように扱うのは明らかに不当である。

 まあ今さら100年前の出来事の「善し悪し」を言っても始まるまい。そもそも、ナショナリズムにおいては、第一のネイションにとっては「不当」な事柄であっても、第二のネイションがそれを「当然」と見なしてしまうことが頻繁に発生するからである。むしろ、ここで問題とすべきことは、ある集団が持つ記憶やイメージの当否ではなく、そういった記憶やイメージが形成されていくプロセスであろう。確かに、20世紀初頭の時点においては、チェコ人とドイツ人が対立しているというのは明白な事実として受け止められていた。だが、そのわずか30年前である1870年代には、ネイションそれ自体がはっきりしない存在であり、ドイツ人とチェコ人の違いも --- 20世紀初頭以降の観点から見れば --- 曖昧なものだったのである。ところが、1890年代に入って両者の対立が先鋭化してくると、ドイツ人やチェコ人といったネイションが太古の昔から存在するという「記憶」が形成され、その「イメージ」が大衆に向けて発信されるようになる。さらには、ナショナル・ヒストリー(国民の歴史)なるものが創造され、ネイションが実態として存在するという「事実」が「学術的な方法」で証明されていく。歴史学の語りにおいては、ヤン・フスの伝統を持つチェコ・ネイションは、1620年の「白山の戦い」で敗北したために、「暗黒時代」を迎えてしまったのだと説明されるのである。その後、チェコは強制的なゲルマン化の波にさらされ、偉大なるチェコ人の記憶は忘れ去られていく。そして、19世紀に至るまで我がネイションは眠りについていた、というストーリー。チェコ人なら誰でも知っている「歴史」の完成である。

 第7節の後半でも述べたように、チェコ人の「覚醒過程」においては、チェコ人としての自覚が促される一方、我がネイションの空間的な広がりもイメージされるようになる。すなわち、ボヘミア領邦、モラヴィア領邦、シレジア領邦は、チェコ人にとっての歴史的な土地である、という観念である。もちろん、「チェコの(cesky, bohmisch)」という形容詞は、チェコ語とドイツ語においては、ボヘミアだけを指す場合とチェコ諸領邦すべて --- ボヘミア、モラヴィア、シレジア --- を指す場合があるため、いつでもチェコ全体がイメージされているわけではない。だが、それがボヘミアだけを指すにせよ、チェコ諸領邦全体を指すにせよ、「チェコ」、あるいは「チェコの」という単語には、「我がチェコ・ネイションの」というニュアンスが追加され、少なくとも1890年代以降は、それにドイツ人多数地域も含まれるようになったのである(*)。

(注*)ドイツ人地域も含めたチェコ・ネイションの空間的な広がりがイメージされるようになった背景には、1890年の「ウィーン協定」(punktace, Punktationen)とそれをめぐる一連の騒動があったのではないかと筆者は考えている。が、それについての説明はここでは省略する。

 当然のことながら、すべに述べた西ボヘミアと北西ボヘミア、そして本節の考察対象となっている南ボヘミアについても、元々はチェコ人の土地であると認識され、現在では「不幸にも」ゲルマン化されてしまっているという解釈が生成されていく。もちろん、チェスケー・ブヂェヨヴィツェ以南の「ボヘミアの森(Bohmerwald)」も、ドイツ人の割合が高いにもかかわらず、否、高いからこそ、頑張ってチェコ人の手に取り戻さなければならない、ということになる。「ボヘミアの森」に言及する場合には、それを「ベーマーヴァルト」というドイツ語ではなく、「シュマヴァ」というチェコ語の呼称で呼ぶべきなのだ。もちろん、スメタナの「我が祖国」を聴く際には、「シュマヴァ」の美しい風景が頭の中に浮かんでこなければならない。なぜって? 「シュマヴァ」も「我が祖国」の一部だからである。

 それでは、「ボヘミアの森」はいかにしてチェコ人の土地だと説明されていくのか? 第7節でも登場したヴァーツラフ・クカニの語り口を借りて、「ボヘミアの森」の古都、プラハティツェ(独語名プラハティッツ、地図8)について見ていくことにしよう。

 1900年の国勢調査によれば、プラハティツェには941名のチェコ人と3,334名のドイツ人が住んでいるはずであった。だが、クカニによれば、この調査では、チェコ人の数が「不当に低く」見積もられているはずであった。どのドイツ人多数地域においてもそうであるように、ここプラハティツェにおいても、ドイツ人の大家や工場主が、チェコ人の借家人や労働者に対して圧力をかけ、日常語としてドイツ語を使うと答えさせているというのである。また、チェコ語を教育語とする学校がこれ以上増えないように、ありとあらゆる策略が行われているのであった。しかも、本来ならばこの地には必要ないはずのドイツ系ギムナジウムが、プラハティツェのゲルマン化を進めるというだけの目的で設立され、立派な校舎が建てられたのであった。クカニの言葉によれば、この学校には「残念ながら」、「分別を失わされた」チェコ人の子供が多数通っているのである。

 しかしながら、とクカニは続ける。プラハティツェは元々スラヴのものであったはずである。現在、ドイツ人と見なされている人の中にも、数多くのチェコ系の名前を見いだすことができるからである。また、この地域で使われているドイツ語の中にも、「チェチケン」(レンズ、原語は cocka)、「カプスン」(ポケット、原語は kapsa)、「シェバス」(〜にもかかわらず、原語は trebas)といったチェコ語起源の単語が多数見いだされる。これらはいずれも、プラハティツェに住むドイツ人の多くが、元々チェコ人であったことを示す「証拠」なのである。

 そして、クカニは、プラハティツェにおけるチェコ人の「覚醒運動」へと話を進めていく。1880年代からこの街にも、チェコ人多数地域からの支援が行われるようになり、チェコ語を教育語とする私立学校が設立され、チェコ社交クラブ(Beseda)やソコルといったアソシエーションも結成されるようになった。また、1902年には、街の中心部であるリング広場に待望のナショナル・ハウス(Narodni dum)が建設され、チェコ系の団体が自由に使える場所ができたのであった。チェコ人はもはや、ドイツ人の眼を気にしながら、ドイツ系の建物の中で密やかに活動する必要はないのである。

 最後に、クカニは以下のような言葉で文章を締めくくった。「古いスラヴの街、プラハティツェが一刻も早くチェコ・ネイションの手に戻ってくることを望んでいる」。

 次節においては、このプラハティツェを目的地として企画されたソコルの遠足を取り上げ、それに対する当局やドイツ人の具体的な反応を見ていくことにしよう。


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引用文献等