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7.テプリツェの温泉とソコル祭典


テプリツェ・湯治場「ベートーヴェン」
テプリツェ。ベートーヴェンという名の湯治場、2000年7月5日。

 7月5日の朝、ヘプを出て列車でテプリツェ(地図3)へと向かった。事前にテプリツェの地区アルヒーフに手紙を送り、5日と6日の二日間にわたって調査をさせて欲しいと希望を書いてあったのだが、帰ってきた返事は「祝日のため閉館です」というそっけないものであった。そう、この日が休みであることをすっかり忘れていたのである。テプリツェもまた、昔から行きたいと思っていながらなかなか行けなかった場所であった。留学時代には、アルヒーフが改修中で数年に渡って閉鎖されていたし、今回も祝日のために閉館である。(もちろん、今回は「フスの日」の存在を忘れていた筆者が悪いのだが)。いずれにせよ、5日の仕事がなくなって暇になってしまったので、ついでにテプリツェに立ち寄ってからプラハに帰ることにしたのであった。

 が、この「ついで」というのが大変であった。いつもなら比較的簡単に接続するはずの列車も、この日はクリスマス並みに本数が少なく、ヘプからテプリツェに行くまでに、カルロヴィ・ヴァリ(地図6)、ホムトフ(地図5)、モスト(地図4)、と三回も列車を乗り継ぐ羽目となった。朝早くに出発したはずなのに、テプリツェにたどり着いたのは午後四時過ぎである。

 テプリツェという街は、カルロヴィ・ヴァリ(独語名カールスバート)ほどメジャーではないにせよ、温泉街としてそこそこ有名なところである。19世紀末には、この街には11の湯治場があり、年間7千人程度の湯治客が訪れていたという。観光客の数も年間23,000名であったというから大したものである。街では「ベートーヴェン」という名の湯治場(写真参照)を見かけたが、ここは彼が訪れた場所なのだろうか? 聞いた話によると、1812年7月20日頃、彼は、たまたまそこに居合わせたゲーテとテプリツェで出会い、腕を組んで一緒に街を散歩していたようである。本当かどうかはともかくとして、彼らが道を歩いていたとき、向こう側から皇后、貴族、廷臣たちが勢揃いでやって来るのが見えたらしい。ベートーヴェンはゲーテに言う。「私の腕につかまったままでいらっしゃい。あの人たちの方から私たちに道を譲るべきです。断じて、我々の方からではありません」。だが、ゲーテはそう思わなかった。彼はベートーヴェンの腕をはずして、帽子を片手に、路傍に控える。ベートーヴェンは両腕をぶらつかせながら、まっすぐに貴族たちの間に割り込み、流星のように真ん中を突っ切っていく。帽子の縁にちょっと手を触れた程度である。ベートーヴェンはゲーテの方を振り返って言った。「あなたは彼らに敬意を表しすぎではありませんか」。現在の我々が抱いているベートーヴェン像にもぴったりと当てはまる「逸話」である。

 1870年代より始まった急速な工業化により、テプリツェは「ズデーテンラント」の中でも有数の産業都市へと成長していった。繊維製品、機械、ブリキ、亜鉛、ガラス、ボタン、ゴム樹脂、インク、陶磁器、リノリウム、等々。1930年代の産品を列挙していくと、この街では色んなものを作っていたことが分かる。そして、その動力源となっていたのは、テプリツェ近辺(ボヘミア北西部)で産出される豊かな炭鉱資源であった。

 1900年当時のテプリツェでは、人口24,420名のうちチェコ人が1,548名であり、ヘプに比べると比較的まとまった数のチェコ人が住んでいたことが分かる。テプリツェを中心とする郡(okres, Bezirk)全体では、78,136名のドイツ人に対して9,018名のチェコ人であるから、郊外の方がチェコ人の比率が若干、高かったようである。ちなみに、ユダヤ教徒の数は郡全体で3,027名であった。
テプリツェ地区アルヒーフ
テプリツェ地区アルヒーフ (Statni okresni archiv Teplice)、住所は Skolni 8、2000年7月5日。

 テプリツェでソコルが設立されたのは1894年のことである。だが、この街でソコルに加入するというのはそう簡単なことではなかったに違いない。ヘプと同様、10年ごとに行われる国勢調査でチェコ語を「日常的」に使っていると答え、自分の子供をチェコ語の学校に通わせること自体、ある種の覚悟がないとできないことであった。特に、ドイツ人雇用者の下で働くチェコ人労働者にとってはそうであっただろう。そんな時分にソコルのユニフォームを着て堂々と町中を歩けたのだろうか?

 また、19世紀末より労働運動が活発化したことで、問題はより一層複雑なものとなっていた。テプリツェに住むチェコ人の大半を占めている労働者にとって、さしあたりの「敵」は自分たちを「搾取」しているドイツ人のブルジョアジーである。だが、「階級の敵」という点では、ソコルを「牛耳っている」チェコ人ブルジョアジーも同じである。とすれば、チェコ人労働者はテプリツェのドイツ人労働者と団結して、ドイツ人とチェコ人のブルジョアジーに対抗すべきではないだろうか? 折しも、部分的ながら帝国議会に男子普通選挙が導入され始めた時(1897年)である。それまで社会民主党に対して鷹揚に構えていた「ブルジョア政党」=青年チェコ党も、労働者の票をめぐって社民党と争う事態となり、両者の関係は悪化し始めていた。当然のことながら、青年チェコ党と密接なつながりを持っていたソコルにもこの対立が波及し、最終的には社民系独自の労働者体操協会が誕生する事態となる。ただし、労働者体操運動の中においても、ネイションの区別がなくなったわけではない。社会民主党と同様、体操運動においても、チェコ人とドイツ人は別々の労働者体操組織をつくる方向に向かっていったのである。

 このように、テプリツェというチェコ人少数地域に設立されたソコルは、最初から困難な問題を抱えていたのであった。「ゲルマンの海」に沈もうとしているチェコ人を救えるのか?、「インターナショナルの陰謀」からテプリツェのチェコ人労働者を救えるのか?、といった具合である。当時、プラハの新聞社で仕事をしていた一人のソコル会員、ヴァーツラフ・クカニ(1859-1925)は、テプリツェを始めとするチェコ人少数地域の「現状」を憂慮し、「脅かされた我々の土地」を救うべく、ソコルの機関誌を使って積極的なキャンペーンを張ったのであった。少々長いが、1896年に書かれた彼の文章を引用してみることにしよう。

 いわゆる「閉鎖地帯(uzavrene uzemi)」 --- 完全にチェコ人の土地であった時代にドイツ人によってそう呼ばれるようになった土地であり、「ビーダー・ホラの戦い」[1620年]以降、17、18世紀に強制的にドイツ化された地域 --- では、今やたくさんのソコル組織が誕生している。高々と掲げられた赤白の旗[ボヘミアの旗]は、その地域がチェコ人の故郷であることを宣言している。また、その旗は、フュグネルとティルシュ[二人ともソコルの創設者]の精神がチェコ人のすべての層だけでなく、こうしたドイツ人地域にも浸透していることを示している。.... [こうした]ドイツ化された地域におけるソコル協会の役割は非常に重要である。彼らはネイションの利益を守る歩哨であり、チェコ人地域へのこれ以上のゲルマン化を阻止する役目を担っているからである。[チェコ人少数地域の]ソコル協会は、若者たちに体操教育を施すことだけを目的としているわけではない。我々チェコ人の子供たちに、そして大人たちにも、ネイションとしての自覚を持たせ、強めさせ、拡大させていくことも目的としているのである。そして、[ドイツ語と]同等の権利をチェコ語にももたらし、チェコ人少数者の権利を守ろうとする勇敢な戦士を生み出すために、ソコル協会はそれに必要な資質を育成していかねばならない。

 なかなかの書きっぷりであるが、この文章を読んでまず第一に気づかされるのは、ネイションの地平が想像されている、という点であろう。ネイションの土地の広がりが無意識のうちにイメージされている、と言っても良いかもしれない。大半のチェコ人にとっては、テプリツェのようなドイツ人多数地域とは縁もゆかりもないし、そこに住むチェコ人とも無関係なはずである。だが、クカニの文章においては、チェコ人少数地域に住むチェコ人は「我が同胞」であり、ゲルマン化の波から「救い出すべき」存在として扱われている。読者は、この文章を読むことによって、見も知らぬ土地を「我々の土地」として意識し、会ったことのない人々を「仲間」として認識するように誘導されていく。「想像の共同体」への誘い、といったところであろうか。

 第二に考えなければいけないのは、ソコルの創設者、フュグネルとティルシュの扱いである。ドイツ人の体操運動においてはヤーンが創始者として祭り上げられ、ナショナル・シンボルへと「昇格」していったのに対し、チェコ人の体操運動では、この二人がナショナル・シンボルへと「昇格」したのであった。彼ら二人は、ドイツ人とチェコ人の違いがそれほどはっきりしていない19世紀半ばに活躍した人物であり、チェコ人としての意識を獲得してチェコ語を使うようになったのも或る年齢を境にしてのことである。だが、「民族運動」の言説においては、ネイションとしての彼らの「中途半端さ」は --- 意図的ではないにしても --- 巧妙に忘れ去られ、「チェコ的なるもの」を体現する人物として語られていく。読者は、この文章を読むことによって、「チェコ的なるもの」が実態として存在することを無意識のうちに確認し、フュグネルとティルシュという具体的な人物の「記憶」によってそれを強化していくのだ。

 クカニは、こうした文章を繰り返し書くことによって、チェコ人少数地域の問題をローカルな地平からネイションの地平へと引っ張り上げていったのであった。こうなると、テプリツェにおける出来事も、一地方の問題ではなくネイション全体の関心事となってしまう。そうした中で、ソコルもまた、1896年からチェコ人少数地域の支援を本格化したのであった。具体的に取られた方策は次の二つである。

 一つは、パトロン制度(ochranitelka)であった。チェコ人多数地域で比較的余裕のあるソコル協会がパトロン役となり、ドイツ人多数地域の中で苦労しているソコル協会を支援していくシステムである。例えば、テプリツェ・ソコル協会はプラハ郊外にあったジシュコフ・ソコル協会とペアを組み、資金、体操器具、蔵書などの支援を受けていたのであった。また、講師の派遣、メンバーの交流、クリスマスの贈り物、といった各種のイベントにより、「我が同胞」としての結びつきを強めていったのである。

 もう一つは、チェコ人少数地域におけるソコル祭典であった。祝祭の日には、各地から数千名のソコル会員が集まり、ユニフォームを着てドイツ人の街を闊歩し、大集団での体操を実行するのである。普段は、ソコル会員であることも公言できず、小さな部屋でひっそりと体操している少数地域の人々も、この日ばかりは堂々と胸を張って行動できるのであった。

 それでは、具体的な事例として1896年にテプリツェで計画されたソコル祭典を見ることにしよう。ドイツ人ばかりの温泉街で祭典を行うという試みに対し、ドイツ人とチェコ人、そして、当局はどのように反応したのであろうか?


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引用文献等