ジュリア・クセルゴン. 鹿島 茂訳.
『自由・平等・清潔 ―― 入浴の社会史』. (河出書房新社. 1992年)
1851年にパリで行われた調査では「屈辱的な事実」が明らかとなった。「パリの住民は一年に一度しか風呂に入らない」というのである。1868年の調査でも事態は「好転」していなかった。しかも、それは全く風呂に入らない10万人の人々を除外しての数値である。いうまでもなく19世紀のパリにおいては、大量のお湯を使うというのは非常に贅沢な行為であった。だが、問題の核心はその点ではなかった。当時の人々にとって、服を脱いで体を水に浸すという行為は、娼婦がやるような「いかがわしい振る舞い」のように思えたのである。1907年の時点においても、医者が女性患者に週に一度は入浴するように薦めると、患者は必ずといっていいほど色をなして叫んだ。「いったい私を誰だと思っているんですか」というわけである(pp.278-279)。
クセルゴンは、こうした19世紀のパリ社会において、清潔さの重要性が「発見」され、美徳とされていく過程を、膨大な資料を駆使しながら鮮やかに描き出している。
清潔さへの第一の契機は、衛生学の発達であった。18世紀の中頃に腐敗や死のプロセスが解明され、悪臭がこの過程で発生することが確認されると、それらと同じように悪臭を放つ人間の垢は、病気や死を運ぶ媒介と考えられるようになった。そして、19世紀に細菌の存在が発見されると、垢は病原菌を運ぶ疫病神として一層恐れられるようになった。かくして、垢を落とすことは「望ましい行為」と位置づけられたのである。
第二は「市民道徳」との結合であった。自分の垢を落としたとしても、周りの人々が不潔なままであれば、疫病から身を守ることは不可能であった。当時の「常識」では、不潔な人間が病原菌を自分の垢と一緒に大気中に放出するために、その他の人間もまた、空気を介して伝染病の危険にさらされるのであった。だが、清潔=善という知識を持ち、実際に、お湯を使って身体をきれいにすることのできる人間は、豊かな市民に限られていた。当然のことながら、共同の水道場を使い、お湯を大量に使うことなど考えもしない貧困層は、不潔なまま取り残されていく。ここに、清潔イデオロギーに階級対立が結びつく余地が生じる。すなわち、清潔な「市民=ブルジョアジー」は善で、不潔なプロレタリアは悪だというイメージである。1870年頃に出された『衛生学事典』では、以下のように書かれている(p.33)。「清潔さの欠如は肉体の純潔にとって害があるばかりでなく、心の純潔にとっても有害である」。こうして、垢だらけの下層階級は、洗浄され、退廃の泥沼から救い出される存在として見られるようになった。
こうなると、清潔さは社会における一種のコード(規範)として一人歩きを始める。良き「市民」たちは、洗練された紳士・淑女と認められるために、頻繁に入浴し、化粧台の前に長々と座って身繕いをするようになる。彼らが、社交界におけるエチケットを創り出し、そして、それに縛られていくという点は、産業社会における抑制された人間関係の誕生を描いたエリアスの議論を想起させる。一方、下層階級が、学校、軍隊、刑務所、あるいは大衆向けの浴場において、洗浄され、従順な身体として「飼いならされていった」という点は、身体の規律化に権力作用の存在を嗅ぎ取ったフーコーの議論にも通じていよう。
清潔さへの第三の契機となったのは、強い国民への憧憬であった。特に、普仏戦争(1870年)でフランスが負けてからは、強い国民、そして強い軍隊をつくることは至上命題となる。軍の最高責任者たちは、兵士たちが一週間に一度は入浴するドイツの軍隊を範と仰ぎ、兵営の衛生こそ、国家の戦闘能力を維持する唯一の方法と結論づけたのであった(p.136)。軍隊にとって重要なのは「一に規律、二に衛生」であった。そして、国民教育の土台となる小学校では、1880年頃から衛生教育が導入されている。「清潔好きな家の子供は不良化したりせず、かならず良い国民になるでしょう」(p.130)というのがその理由であった。また、家庭における身体衛生の徹底をはかるために、週一回、母親たちを学校に呼び寄せ、彼女たちが見ている前で子どもたちの衛生検査を行ってもいる。
第四の契機として挙げられるのは、霊肉二元論というキリスト教道徳からの解放である。フランスで清潔に対する配慮が宗教的な罪悪感なしに受け入れられるようになったのは、19世紀に入ってからであった。それまでのカトリック教会においては、救済の対象となる魂と世俗的な肉体がはっきりと区別されており、自らの肉体に視線を向けたり、手を触れたりする行為が堅く禁じられていたのである。ところが、1880年代においては、聖書は次のように解釈されていたのであった。「モーゼは自らの民のために清潔の心得を数多く残され」、「その教えが守られるように、体の不潔な者は魂も不純であるようにされた」(p.30)。こうして、石鹸を使って体を洗うという行為に教会からお墨付きが与えられたのである。
19世紀のパリにおいては清潔イデオロギーが盛んに唱えられたにもかかわらず、少なくとも20世紀初頭の段階では、社会の隅々まで入浴の習慣が浸透したわけではない。だが、ここで重要なのは、社会の何パーセントの人間が風呂に入るようになったかという点ではなく、清潔を善とする言説が主流になったというメンタリティーの変化である。この変化はおそらく、社会ダーウィニズムと結びついて1880年代に登場した優生学や1900年頃に登場した遺伝学にもつながっていったのであろう。「自由・平等・友愛」の陰で発展した衛生観念が、戦間期には偏狂的な統制思想へと結実していったとすれば、19世紀末に現れた社会ダーウィニズムに対して、本書で扱われた清潔イデオロギーはどのように作用したのであろうか? 残念ながら、本書ではその点に関する言及はされていないが、それは欲張りな注文というものであろう。
1999年12月28日記