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ジャック・バーザン, 野島 秀勝訳.
『ダーウィン、マルクス、ヴァーグナー ―― 知的遺産の批判』.
叢書ウニベルシタス(633). (法政大学出版局. 1999年).


   ヴァーグナーのオペラ『トリスタンとイゾルデ』は、怪しげな魅力を持つ作品である。明確な調を持たない旋律。果てしなく続く音の流れ。観客は「和声(ハーモニー)の底なしの海」へと溺れ、楽劇の幻想的な世界へと取り込まれていく。こうなるともう後戻りはできない。彼らは、こうした神秘的な仕掛けによって、美的宗教の信者=ヴァグネリアンとなっていくのである。

   ロマン主義的幻想に満ちた『トリスタン』。しかしながら、バーザンによれば、ヴァーグナーのこうしたオペラは、科学万能主義を体現する芸術作品なのであった。

   実のところ、『トリスタン』で語られるのは空前絶後の偉大な恋物語ではなく、自らの意志を放棄して運命に身を委ねるトリスタンとイゾルデの物語なのであった(pp.318-319)。そして、二人にとって重要なのはロマンティックな恋愛よりもむしろ生物学的な愛であった。現に、第二幕では、そういった生物学的行為が聖化され、祝祭化される。つまり、このオペラの奥底で繰り返し流れているのは、宿命論的哲学と唯物論という指導動機(ライトモチーフ)なのであった。

   作品だけではない。ヴァーグナー自身、芸術の進化に奉仕する人間であった。民族と国家の発展と共に前進する芸術は、民衆の全ての感覚に訴えかけ、彼らの現実感を再構築していく。ヴァーグナーが目標とする人類の救済 ―― あくまでドイツ人が中心である ―― は、総合芸術としてのオペラによってもたらされるのであった。その意味では、進化の途上にあり、舞台を重視しなかったベートーベンの音楽は過去の遺物として破棄される運命にあった。

   もちろん、機械論的唯物論に染まっていたという意味では、ダーウィンとマルクスも同じであった。『トリスタン』が完成した1859年という年に、ダーウィンの『種の起源』とマルクスの『経済学批判』が出版されたというのは単なる偶然かもしれない。だが、その事実は、後の時代を支配することになる進化思想の確立を象徴する出来事であった。バーザンは、この点に着目し、ダーウィン・マルクス・ヴァーグナーという三人組(トリオ)を題材としながら、新しい時代精神の誕生過程を扱っている。

   ただし、この三人組は新しい価値観を生み出すほどの能力は持っていなかった。確かに、マルクスは「プルードン主義のロバども」を軽蔑し、真の科学的武器となりうる『資本論』の新しさを強調したかもしれない(pp.442-443)。だが、「ロバども」や他の誰かが絶え間なく煽動活動を行い、武装蜂起をしていたおかげで、マルクスの主張が受容される土壌が出来上がっていたのである。そうした「名も知られぬ呪われた先駆者」に対してマルクスが与えたのは、感謝の意ではなく侮蔑の眼差しだけであった。ヴァーグナーにしても、ベルリオーズの標題音楽をこき下ろす一方で、『ロミオとジュリエット』第二部の冒頭をちゃっかり『トリスタン』前奏曲に転用していたのであった(pp.327-328)。もっとひどいのはダーウィンであろう。観察することは得意でも、理論的考察はまるっきり駄目であった彼は、自著『種の起源』において何が他人からの借用で、何が独自の理論なのかがよく分かっていなかった(p.124)。結局のところ、彼らは新しい価値観を伝える優れたメッセンジャーであったとは言えても、その創造主ではなかったのである。

   また、彼らは自分の主張したことが一人歩きを始め、自分の手を離れて行くのを指を加えて見守る羽目にも陥った。『種の起源』の初版では「進化」という言葉は使われていなかったにもかかわらず(p.63)、「ダーウィンの進化論」という理論が成立し、ダーウィン自身が慌ててそれを追いかけていったのであった。晩年のマルクスが、私はマルクス主義者ではないと嘆いたのは有名な話である。他方、権力の絶頂にあったヴァーグナーは、バイロイト音楽祭が自分の意図から逸脱し、無意味なものと化してしまったと嘆いていた(p.437)。彼ら三人は、歴史の新しい流れを決定する支配者ではなく、時代精神の変化を告知する道化にすぎなかったのである。

   現在の冷戦後の世界においては、マルクスのインパクトは明らかに低下し、生物学においては「進化」の存在自体に疑問符が付されている。が、社会における進化思想自体はまだ力を失っていない。本書の初版が出された1941年においても、それから60年ほど経った現在においても、我々は依然として機械論的唯物論という19世紀の幽霊に支配されているのである。バーザンによれば、我々は、進化論によって非合理的な観念から自らを解放したつもりになっていながら、実際には、物質という新しい信仰対象に縛られてしまったのであった(pp.476-477)。しかも、科学においては真理は一つとされる為に、なおのこと始末が悪い。なぜなら、科学に自分のたちの運命を委ねた結果、我々の世界は宿命論的なものへと変化してしまうからである。この絶対神としての宿命に逆らおうとする行為は、容易に暴力的な対立へと発展してしまうであろう。特に、本書が第二次世界大戦中に出版されたことを考えると、「[このまま行けば]間違いなく破滅する」というバーザンの警告は、極めて真剣味を帯びたものであったことが理解できる。果たして、20世紀末の今では、この「破滅」の危険をどれぐらい回避できているのだろうか?

   2000年1月24日記



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