ノルベルト・エリアス, エリック・ダニング著. 大平 章訳
『スポーツと文明化 ―― 興奮の探求』. 叢書ウニベルシタス(492).
(法政大学出版局. 1995年)
スポーツは「文明社会」における暴力のはけ口として機能している。これが、本書で示されている極めて刺激的な仮説である。
産業社会の発展過程においては、分業と相互依存の発生により、近代以前に比して抑制された人間関係が必要となる。ナショナルな規模で展開される近代的共同体においては、人と人との関係は「機能的」となり、原始的な感情を発露させる回路は抑えられてしまうが故に、その分、興奮を得たいという欲求も増大する。その不満を解消するべく登場したのが、スポーツという娯楽であった。もちろん、スポーツそれ自体においても暴力は制限されたものとして立ち現れる。ボクシングなどの現在の格闘技を見れば明らかなように、階級の区別や反則技の設定によって、暴力の発生が最小限のものとなるようにコントロールされているのだ。つまり、社会の「文明化=暴力の抑制」と密接に結びついて誕生した近代的意味でのスポーツには、それ自体、暴力を抑制する「文明化」への傾向が内包されているのである。いずれにせよ、我々は、スポーツにおける限定的な興奮を楽しむことによって、社会における抑制と緊張によって被ったストレスを発散させ、精神的な均衡を保っているということになる。
スポーツにおける「暴力の抑制」を示す事例として、狐狩りを挙げることができよう(pp.231ff.)。18世紀のイギリスにおいては、狐狩りはジェントルマンの娯楽として特殊な形で発展したのであった。ジェントルマンは、食料を確保する手段としてではなく、狐を追跡する一種のゲームとして狩りを楽しむようになったのである。そこには様々なルールが存在しており、銃を使って狐を殺すという「野蛮」な方法ではなく、猟犬によって狐を捕まえる ―― つまり、自らは手を下さない ―― 「紳士的」な方法が正当だとされていた。限られた人々のスポーツとして発達した狐狩りにおいて、ジェントルマンは、特権階級としての自らのステータスを確認し、さらには、規範に従って暴力を行使するという限定的な興奮を味わっていたのである。
また、イギリスにおけるフットボールの発達も興味深い(pp.253ff.)。中世のイギリスにおいて見られた民衆のフットボールは、今の時代では考えられないぐらい「野蛮」なものであった。ゲームにおいては、ボールだけでなく相手を攻撃するための棒も使われ、死傷者が出ることもしばしばであった。競技場の内と外、選手と観客との境界は曖昧であり、通りがかりの人間が試合に参加することもあれば、傍観を決め込んでいる観客が突然、選手に殴りかかられることもあった。ところが、19世紀に入ると、そのような暴力的なフットボールがパブリック・スクールの生徒によって受け入れられ、ルールによって制度化された「非暴力的」娯楽へと改造されていったのである。この点については、ダニング、シャド共著の『ラグビーとイギリス人 ―― ラグビーフットボール発達の社会学的研究』(ベースボール・マガジン社、1983年)において、詳しく扱われている。
このようにスポーツの観察を通して見えてくる「文明化=暴力の抑制」の議論からは、次の論点が導き出される。
一つは、フーコーによって提示された「規律化される身体」との関係である。『監獄の誕生』において示されたように、人間の身体は、権力によって管理される身体と化したのであった。近代的な監獄、学校、病院といった諸制度により、人々の身体は監視される対象となり、「上から」規律化される存在へと変容したのである。これに対し、エリアスによって提示された「暴力の抑制」は、もっぱら「市民」の側から、すなわち「下から」発生する現象として捉えられている。彼が想定している社会の「文明化」は国家権力によって「上から」行われるものではない。彼の主張する「暴力の抑制」は、相互依存の進展によって緊密化する人間関係に見合う形で「自然発生的」に生じるのだ。近代社会における「身体の規律化」を考える時、フーコーとエリアスの議論は、どちらも欠くことのできない相互補完的なものとして位置づけられよう。
もう一つの問題は、「文明化」によって暴力が本当に抑制されるのか、という点である。「文明化」の最も進んだはずの20世紀が、実際には、最も大量殺戮が行われた時代でもあったことを考えると、多木の指摘するように、エリアスの言う「暴力の抑制」は「半分しか当たっていない」のかもしれない(『戦争論』岩波新書、1999年)。だが、エリアス自身がイギリスへの亡命を余儀なくされたユダヤ系ドイツ人であり、彼の主著である『文明化の過程』が1939年に発表されたことを考えると、「暴力の抑制」という発想が単純に机の上だけの思考によって産み出されたとは言えまい。それでは、彼はナチズムのような現象をどのように説明しているのだろうか。
本書において、彼は、古代ギリシャにおいて見られた戦争での残虐行為、あるいは古代オリンピアの競技で許容されていた肉体的暴力に言及している(pp.195ff.)。当時においては、今の規準をはるかに越えたレベルの暴力が許容されていたのに対し、現在においては、暴力そのものを防止することはできないにせよ、少なくとも、それを「野蛮」であるとか「不作法」であると見なす感覚が育ってきている。ナチスが犯した行為にしても、我々はそれを止めることはできなかったが、すくなくともそれを嫌悪し、批判する感覚を持っていることは事実である。その意味では、我々は、以前よりも「文明化」された社会に生きていると言えるのではなかろうか。このようにエリアスは主張している。
しかしながら、今世紀において頻発した戦争とそれに付随した数々の暴力行為を、「文明化過程」からはみ出した単なる「逸脱」と片づけてしまっていいのだろうか。この点については、まだまだ議論を深めていく余地があるだろう。
少々長い書評となってしまったが、多方面の研究分野にまたがる本書には、議論すべき点がまだまだたくさん残されているように思われる。「スポーツ社会学の古典」だけにしておくにはもったいない文献と言えよう。
1999年11月20日記