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マーレー・エーデルマン、法貴良一訳 『政治の象徴作用』 (中央大学出版部、1998年)


   民主主義の世の中においては、選挙によって選ばれた政治家たちが公共利益の実現を求めて活動している、というのが一般的な政治の「常識」である。ところが、この「常識」はあくまで虚構に過ぎず、実際には、政治は象徴がうごめく世界でしかないとエーデルマンは主張する。

   例としてフーヴァーと F.ルーズヴェルトのリーダーシップを比較してみることにしよう(124-125頁参照)。よく指摘されるように、ニュー・ディール政策の多くはフーヴァー政権下においてすでに開始されていたのであった。だが、大恐慌の深刻さを強調し、自分がその危機に正面から立ち向かっているという点を印象づけたのはルーズヴェルトであった。その結果、危機の存在を否定したフーヴァーは無能の烙印を押され、選挙であっさりとルーズヴェルトに負けてしまったのである。ここで重要であったのは、実際に行われている政策の中身ではなく、政治というドラマの演出方法なのであった。

   ドラマトゥルギーとしての政治を理解する第一のポイントは言語である。人間関係を媒介する言語は所与のものとして存在するのではなく、社会の中において意味が付与され、構成されていくものである。したがって、言語は本質的に曖昧なものであり、それに頼って生きざるを得ない人間は必然的に不安定な状態に置かれることとなる。社会の中で生きる以上、人間は不安を持たざるを得ない。これが本書における第二のポイントとなる。

   どんな社会においても、個人の不安感を和らげる装置、すなわち儀式が制度化されている。これは未開社会においても近代的な社会においても変わることはない。人々は、呪術的な儀礼、決まり切ったスローガンに繰り返し接することによって自分の拠り所を見いだし、安堵感を獲得するのだ。だが、心地よい政治的言辞の中に安住することによって、人々は、自らの認識枠組みを固定化し、行動を制約する檻に自分から入り込んでいくことにもなる。一般大衆が、大げさなスローガンを好みつつも、実際には体制順応的・保守的な傾向を持つというのはこの点から理解できる。

   以上が本書の内容である。原書の第一版が1964年に出されたことを考えると、著者の議論が『自由からの逃走』(フロム)に代表されるようなナチズム後の大衆社会論を色濃く反映しているのは当然のことであろう。だが、現在の観点から見れば、「不安」という一語で大衆を一枚岩的に捉えるのはやや乱暴に見えなくもない。本書はあくまでエリートと大衆との関係に的を絞った考察であるが、大衆内部におけるシンボル操作の機能についても検証する必要があろう。エリートがシンボルを発明し、大衆がそれに追随するという単純な構図では、社会の実態は見えてこないからである。その点では、例えば、ボドナーの『鎮魂と祝祭のアメリカ ―― 歴史の記憶と愛国主義』(青木書店、1997年)は歴史学の側面からエーデルマンの議論を発展させた一例として読めなくもない。ボドナー自身はエーデルマンに対する言及をしていないのであるが。

   また、本書を読んでいて思い浮かんだのは、最近の国旗・国歌をめぐる議論であった。そもそも、日の丸や君が代は単なる記号であり、それ自体が何らかの意味を持つわけではない。明治維新以降、そうした記号が初めて国民的な意味を獲得し、ある時には忠誠の対象に、ある時には憎悪の対象へと変容してきたのであった。その点に着目すれば、我々はこうしたシンボルをもっと相対化して捉えることができるはずである。私見ではあるが、国民国家的シンボルを脱構築する視角 ―― 象徴政治学のまなざし ―― が「市民」の間で熟していれば、今ごろになって国旗や国歌のようなものに国家権力が固執し、法案として採択してしまうようなことはなかったように思われる。その意味では、若干古くさいとはいえ、エーデルマンが提起した象徴政治学は一読に値する議論と言えよう。

   1999年8月記



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