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Jiri Rak. Byvali Cechove: Ceske historicke myty a streotypy. H&H, Praha, 1994.
     (イジー・ラク『チェコ人が存在した--チェコの歴史的神話とステレオタイプ』)

   常に楽観的姿勢を崩さないホブズボームは、ナショナリズムをめぐる議論が活発化した最近の傾向を夕闇の中で飛び回るミネルヴァのふくろうに例えている。彼によれば、ナショナリズムに対する関心が高まっているということは、逆にナショナリズムそれ自体の衰退が始まっている証拠であるらしい。

   その真偽はともかく、今のナショナリズム論には歴史学に対する懐疑、もっと具体的に言えば「脱国民史観」とでもいうべき要素が強くなってきている点は確かなように思われる。

   ネイションという新しい共同体が近代に成立した時、それまでの「古いもの」、すなわち、伝統、宗教、神話といったものがすべて放棄されたわけではなかった。むしろ、新しく登場した集団のアイデンティティーを確保するために、ネイション固有の伝統が「創造」され、利用されたのである。極めて理念的な共同体として「想像された」フランスにおいてすら、「フランス的なるもの」が追究され、フランス人の一体感を生み出す道具として使われていく。この時、ネイションの拠り所となる過去が脚光を浴び、ネイションに属するすべてのメンバーが学ぶべきものとして、ナショナル・ヒストリーが注目されるのだ。つまり、近代の歴史学とネイションの誕生は表裏一体を成すものであり、ネイションの起源についての議論を始めれば、当然、歴史学の起源にも関心が生じることになる。最近のナショナリズム論において従来の国民史に対する懐疑が見られるのは、当たり前といえば当たり前のことなのである。

   その点はチェコにおいても同様である。ここで紹介するラクは、まだ社会主義政権が健在であった80年代より頭角を現してきた歴史家の一人であり、本書においてチェコ人が持っている歴史イメージを掘り崩す作業を行っている。といっても、それは単なる暴露本ではない。彼は、チェコ人の間で流布している「常識」が成立する過程を丹念に見ていくことによって、伝統や神話、シンボルといったものがナショナリズムの普及において如何に機能してきたのかを明らかにしている。

   一つだけ例を挙げておくことにしよう。日本人にもお馴染みの宗教改革者ヤン・フスは、チェコ人にとって最も重要なナショナル・シンボルである。だが、1415年に宗教的異端として火刑にされた彼がナショナルな存在として捉えられるようになったのはチェコ・ネイションという意識が確立しつつあった19世紀半ばの話であった。その時には、宗教的な文脈は消え去り、フスとその信奉者の戦いは、ドイツ人に対するチェコ人の解放を求める戦いと解釈されていたのである。そうでなければ、統計的にはカトリック信者が大多数であるチェコ人の間で、「反カトリック的」であったはずのヤン・フスが何故あれほどもてはやされたのかは説明できまい。

   本書の考察を読んですぐに思い出したのは、多木浩二氏の『天皇の肖像』(岩波新書、1988年)であった。氏は本書において明治初期における天皇の肖像画や写真の利用について考察し、神格化された天皇のイメージがどのようにして国民の間に定着していったのかを明らかにしたが、その「ノリ」に通ずるものを本書にも感じたのである。今後も、このようなすぐれた「脱国民史」を随時紹介していきたいと考えているが、ここ数年の間、留学していたこともあり、評者の専門であるチェコ史学以外の動きには正直言って追いついていないのが実状である。日本史や他国の歴史学における「脱国民史的」文献について他の方々からの示唆を頂ければ幸いである。

   1999年7月記



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