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アンソニー・ギデンズ著, 松尾 精文, 小幡 正敏訳.
『国民国家と暴力』. (而立書房. 1999年)


   20世紀の世界は、血なまぐさく、恐怖に満ちている(p.11)。だが、マルクスやデュルケム、その他の理論家たちは近現代国家における暴力の問題を見落としてしまっている(pp.33-38)。例えば、マルクスによれば、階級支配の道具である国家が消滅すれば、それと共に暴力も消え去るのであった。分業の進展によって社会の有機的連帯が進展するというデュルケムの理論においては、個々人の結びつきが国境を越えて拡大するために戦争を起こす理由もなくなってしまうのであった。しかし、である。暴力に満ちたこの百年間を振り返れば、そうした楽観的な「近代化論」が片手落ちであったことは否定できまい。本書は、こうした暴力の問題を真正面から捉え、その変化を資本主義や工業主義の発達、権力による管理・監視の強化、国民国家の誕生といった諸要素との絡みで把握しようとする極めて野心的な著作である。

   ギデンズによれば、国民国家は西ヨーロッパで生じた偶然の産物であった(pp.102-144)。三十年戦争の悲惨さに懲りたヨーロッパ諸国は、1648年のウェストファリア会議において、お互いを対等な国家として認めあい、「力の均衡」という全く新しい原理にしたがって「国家間関係」を規定することに同意したのであった。他方、技術の発達によって高度な管理と多額の費用を必要とするようになった軍隊が専ら国家によって運営されるようになり、国家と国家の間には明確な国境線が引かれ、お互いの領土がしっかりと確定されるようにもなった。ここに、国民国家 ―― 暴力手段を独占する国家 ―― の原型が生まれる。

   これに追い打ちをかけたのが資本主義の発生であった(pp.145-199)。貨幣経済に基づいた商品の流通が円滑に行われるためには、国家が貨幣を発行するだけの信頼性を持ち、国内秩序を平定させるだけの力を持っていることが必要となる。言い換えれば、資本主義社会は境界画定された実態、すなわち安定した国民国家を志向することとなる。さらには、資本主義における利潤の追求が、より効率的な商品の生産 ―― 工業主義へとつながっていく。ただし、ギデンズのいう工業主義はに工場制生産の機械化だけでなく、それに付随する職場の中央集権化も含意されている。資本主義と工業主義が徹底した社会においては、労働者は管理され、労働力という商品を売るだけの存在となってしまうのである。

   権力者による管理や監視を一層効率の良いものにしたのは、19世紀後半におけるコミュニケーション手段の発達であった(pp.200-222)。鉄道、郵便、電信、電話、印刷技術、そして国内時間の統一によって初めて、国家レベルでの国民の管理が可能となったのである。フーコーが述べたように、国内の秩序を保つために「逸脱」の概念が発明され、監獄や精神病院に隔離された「逸脱者」が「矯正」されたうえで社会に「復帰」するシステムが出来上がったのであった。だが、管理を生み出す契機となったのは工業主義だけではない。ギデンズによれば、工業主義よりもずっと以前に軍隊において「規律」の問題が生じていたし、19世紀後半以降にはポリアーキー(ここではダールのいう自由民主主義的なものよりも広い意味での民主制と解されている)が国家による管理を強化する役割を果たしたのであった。

   広い意味での民主主義の進展とシティズンシップの権利 ―― 市民的権利(自由)、政治的権利(参加)、社会的権利(福祉) ―― の拡大は、一義的には市民の国家からの自立を意味している。が、実際には、ポリアーキーの拡大は、統治者と被統治者との相互作用の増大をもたらし、国家による国民の管理を押し進める効果を持っていたのであった(pp.228-241)。一番分かりやすいのは、社会的権利の問題であろう。社会保障の充実は、市民の権利拡大を意味する一方で、収入状況、疾病の有無、家族構成といった細々とした点を逐一管理される側面を持っているのだから。

   西ヨーロッパで誕生した国民国家は、第一次世界大戦後、ウィルソンの理想主義と共に全世界へと普及していく(pp.292-335)。現在では国連を始めとする様々な国際組織が活躍し、国家の主権に何らかの形で制限を加えているものの、国民国家の基盤は今のところ弱まってはいない。国際舞台においては、アクターとなれる第一の存在はやはり国家であり、国民国家の体を成していない国家でさえ、国民国家の振りをしてステージに上がろうとしているのである。

   モダニティー(近現代)を彩る五つの要素 ―― 国民国家、資本主義、工業主義、管理・監視、暴力 ―― は、最初は偶然の産物として登場したのかもしれない。しかし、これらの要素は結果としてお互いに結びつき、お互いを強化しながら発展してしまったのであった。しかも、 ―― ギデンズは半ば皮肉を込めて主張しているが ―― 我々はマルクスのおかげで資本主義を「弁証法的に解決する」理論を持っているのに対し、軍事力の漸進的蓄積に対しては「弁証法的」に対応する術を持っていないのである(p.372)。我々は、増大する暴力それ自体を単独のものとして扱うのではなく、近現代を特徴づける一要素としてそれを位置づけ、モダニティー全体に関わる問題として対処しなければならない。ギデンズによって提示されたこの問題は、幸か不幸か21世紀にも引き継がれる荷の重い宿題となりそうである。

   2000年2月24日記



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