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Suzanne L. Marchand, Down from Olympus:
Archaeology and Philhellenism in Germany, 1750-1970

(Princeton University Press, 1996)


 「ヨーロッパ」の語源はギリシア神話の「エウロペ Europe」だと言われている。フェニキアの王女であった彼女の名前が ―― 理由は定かではないが ―― ヨーロッパ地域の呼称として定着したのである。名称だけではない。古代ギリシアはヨーロッパ史の「源流」であり、哲学・言語・文化など全ての面において、ヨーロッパ、ひいては西洋文明全体と結びついている。少なくともそのように思われてきた。

 だが、古代ギリシアを西洋の「源」とするこの「常識」に真っ向から勝負を挑む論考が現れた。1980年代後半に登場した M. バーナルの「黒いアテネ」論である(1)。彼は、ギリシア文明におけるエジプトの影響を実証的に明らかにし、ギリシア文明が純粋に「白人」の文明ではなく「黒い」要素が「混入した」ものであると指摘したのであった。ところが、そのギリシア文明は、ヨーロッパにおける近代化の過程の中で自らのルーツとして「再発見」され、「白人」文明の「源流」として読み替えられたのだという。様々な文化が融合して形成された古代のギリシア文明が純粋に「白い」ものではあり得ない、という点は、ある意味では当然のことのように思われる。だが、「黒いアテネ」という挑発的なタイトルを掲げた彼の議論は、西洋史の前提を根底から覆しかねない危険なものとして大規模な論争を引き起こしたのであった。

 評者は古代史に疎いため、ギリシア文明に対するエジプトの影響を実証的に論じた彼の主張が正しいのかどうか、正直言ってよく分からない。だが、18世紀後半以降のヨーロッパにおいて、古典古代が「再発見」され、「栄光のギリシア」と自らの「文明性」を結びつける言説が流布したという点は、大いに興味をそそられるものであった。もちろん、ヨーロッパにおけるギリシアの「発見」は、少なくともルネサンスの時期まで遡って考える必要があろう。だが、近代的な歴史学の中で、ギリシアが「文明史」の「源」とされる直接のきっかけとなったのは、やはり18世紀後半における「新古典派」の絵画や建築であろう。特に、J. J. ヴィンケルマンによるギリシア芸術の賛美は、古代ギリシアに対する関心を呼び起こすうえで決定的であったと言える。

 こうした議論に興味を持ち始めた時期に出会ったのが、今回紹介するマーチャンドの本である。彼女は、ドイツにおける「ギリシア熱 philhellenism」の系譜を丹念に辿りながら、知識人を中心として展開された「オリエンタリズム」の内実を明らかにしている。

 ところで、ここでいう「オリエンタリズム」は、言うまでもなくサイードによる用語法を踏襲したものである。従来、東方趣味や東洋に関する研究などを意味していたこの言葉に、サイードは新しい定義を付け加えたのであった。彼によれば、「オリエンタリズム」とは、「東洋」を劣ったものとして位置づけ、「文明的な西洋」による「東洋」の支配を正当化する様式(スタイル)ということになる(2)。インドや中東、エジプトといった「オリエント」地域は、ヨーロッパ文明と言語の「淵源」でありながら、その輝きを失い、文明の継承者たる「西洋」の支配を受けるべき存在へと堕したというのである。その点ではギリシアも同じであった。例えばヴォルテールは、今のギリシア人はトルコの単なる奴隷に過ぎなくなっているから、彼らは自らをギリシア人と呼んだり、ギリシア人の「祖国」について語ったりするべきではない、とまで主張したらしい(3)。ただし、サイードの議論においては、主として英仏の「オリエンタリズム」に焦点が当てられており、また、「オリエント」としてのギリシアが欠落している。その点では、ドイツによる「ギリシア熱」を扱ったマーチャンドの著作は、二重の意味でサイードの議論を補完するものとして位置づけられよう。

 次に挙げられるのは、彼女の関心が、「オリエント」として表象される側ではなく表象する側に向けられている、という点である。近年よく言われているように(4)、「西洋」による「オリエンタリズム」は、その全てが「東洋」を下位に従属させるものではなかったし、西から東への一方向的なものでもなかった。また、「西洋」は「東洋」と向き合うことによって、「東洋」から多大な影響を受けてもいるのである。もちろん、「西洋」が実際に植民地支配を行ったのは事実であるが、それはサイードの主張するような一方的な関係ではなく、「植民地体験」とでも言うべき相互参照的なものだったのである。実際、マーチャンドの著作においては、ドイツ史の具体的な流れの中で、如何なるギリシア・イメージが必要とされ、また、「ギリシア熱」が加熱する中で、ドイツ社会が如何なる影響を受けていったのか、という点が明らかにされていく。その意味では、本書で語られているのは、ギリシアという鏡に映し出されたドイツの自己像ということになろう。

 しかしながら、本書最大の見どころは、「オリエンタリズム」に基づく制度化を論じた部分ではなかろうか。その一例として、1898年に設立されたドイツ・オリエント協会 (DOG, Deutsche Orient-Gesellschaft) を挙げておくことにしよう(195ff.)。

 この協会は、主として小アジアの研究を目的としていたが、その執行部には錚々たる人物が顔を揃えていた。皇族から二名、ドイツ銀行頭取でバグダッド鉄道の代表であったゲオルク・フォン・ジーメンス、外務省次官で植民地局長であったフリードリヒ・フォン・リヒトホーフェン、プロイセン文部省の大物官僚であったフリードリヒ・アルトホーフ、その他、政財界の大物たち、といった面々である。この点から明らかなように、ドイツ・オリエント協会は、ヴィルヘルム二世によって開始された積極的な対外膨張政策と密接な関わりを持っていた。特に、1898年の秋に行われた皇帝夫妻による「オリエント」旅行は象徴的な意味を持っていたと言えるだろう(5)。これは、ドイツによるトルコの「帝国主義的支配」の確立を保証した事件というだけにはとどまらない。オリエント協会の設立と多数の従者を従えた皇帝の「ご訪問」は、「オリエンタリズム」が単なる学問研究のレヴェルを超え、国家的な事業へと昇格した事実をはっきりと指し示していたのである。

 一方、アカデミズムそれ自体にとっても、研究活動が制度化され、国家化されていくことは、半ば「自然」な流れとなっていた。そうした中で、文献学や考古学といった名前の講座が大学に設置され、趣味として「オリエント」を探究する好事家の代わりに、大学教授の肩書きを持った「オリエント」の専門家が台頭したのである。また、諸列強が競う合うようにして「オリエント世界」へと進出し、国家主導による大規模な発掘活動が行われるようになると、考古学そのものが、国家からの補助なしには立ちゆかない分野へと変質していく。例えば、考古学者エルンスト・クルティウスの指揮によって行われたオリンピアの発掘では、500人以上の人夫が雇われ(最盛期)、1875年から79年までの間に、1,328点の石像、7,464点の青銅、2,094点の土器、696点の碑文、3,035点の硬貨が発見されたという(87)。シュリーマンのように自らの私財を投じてギリシアの遺跡を掘り続けた例外的な人物もいたが(6)、こうした大規模な発掘作業を行ううえでは、何よりもまず国家からの支援を得ることが「常識」となったのである。その点では、皇帝一家と個人的な関係を持ち、巨額の補助金を引き出す「政治力」を持っていたクルティウスは、「大考古学」時代にうってつけの人物であったと言えよう。

 だが、隆盛する考古学とは対照的に、文献学を中心とする古典派は「没落」の危機を迎えていた。産業社会に移行しつつあった19世紀後半においては、工学を中心とする「実学」が力を持ち、ギムナジウムでの「退屈な」古典語教育や「役に立たない」「教養 (Bildung)」は、「無用の長物」として打ち捨てられる危険に直面したのである。もちろん、「古典」としてのギリシアの地位は、ヴァイマール期においても、そしてナチス期においても、基本的には揺らぐことがなかった。ただ、ここで強調しておくべきなのは、体制の中で優遇されるにせよ、無用扱いされるにせよ、この時期の人文科学は「生存競争」における生き残りをかけて自らの「有用性」を主張する必要性に迫られたという事実であろう。極端な例ではあるが、ナチス期の古典学者の中には、自らの立場を正当化するために、ヒトラーの『我が闘争』に引用されている「古典」のリストを必死になって作成した者もいたようである(350)。涙ぐましい限りであるが、転換期を迎えつつある日本の研究者にとって、これは他人事ではないのかもしれない。

 マーチャンドによれば、第二次大戦後のドイツにおいては、従来のギリシア古典派に付きまとっていた一種の「文化的使命感」はもはや見られなくなったようである。ナチズム期にまで継承されたギリシア観が一種のアンチテーゼとなったのであろう。実際、ドイツ考古学研究所(DAI, Deutsches Archäologisches Institut) は、戦後においても依然として優遇されていたが、多額の研究費を必要とするようになった自然科学との差は広がるばかりとなった。金額だけで判断するべきことではないが、1963年においてドイツ考古学研究所が政府から受け取ったのは 7,263,000 マルクであったのに対し、旧西独全体の物理学系研究機関が受け取った研究費の総額はその30倍以上、正確には 242,468,000 マルクであったという(363)。19世紀末の人文科学「偏重」の時代から見れば、これは驚くべき変化ということになろう。古代ギリシアの研究は、その他の地域研究と同格に扱われる一分野と化したのである。


 結局のところ、イギリスやフランスよりも遅く近代化を始めたドイツにとって、古代ギリシアは「文明性」を証明する一種のツールとして機能したのであろう。その点は、ドイツこそがオリンピアを発掘する資格があると主張したクルティウスの言葉に象徴的に表れている。彼は、「文明」の後継者であるドイツこそが、「海軍の蒸気力・参謀たちの技術力・考古学者や建築学者の知識」を総動員して古代ギリシアの世界へ向かうべきだと考えていたのである(92)。単純化し過ぎかもしれないが、これが、マーチャンドの著作から見えてきた「ドイツ・オリエンタリズム」の実態であった。

 彼女の著作から見えてくるもう一つの点は、国家と学術活動との関係である。近代的な科学が大学という公的な制度と密接に結びつき、多かれ少なかれ国家からの資金を得ていることを考えれば、統治機構や社会から完全に自由な研究というものはあり得ない。その点では、学問の「有用性」という点は、制度の枠内で活動する全ての研究者に当てはまる問題である。折しも現在の日本では独法化の議論が行われているため、ついついこの点に関心が向いてしまったが、そうした問題を度外視するにしても、研究者と国家との関係についてはもっと注目する必要があるだろう(7)。特に19世紀における考古学の発展については、社会史的な観点からアプローチしてみれば、もっと面白い事実が発見できるだろう。余裕があれば、この点についてもう少し調べてみたいのだが(8)


 2003年7月9日記

 

  1. Martin Bernal, Black Athena: The Afroasiatic Roots of Classical Civilization, Vol.1: The Fabrication of Ancient Greece 1785-1985 (New Brunswick, N.J: Rutgers University Press, 1987). 本書は現在、絶版となっているが、近々邦訳が出版されるようであり、楽しみである。なお、本書をめぐる論争については、例えば以下を参照。David Chioni Moore (ed.), Black Athena Writes Back: Martin Bernal Responds to his Critics (Durham/ London: Duke University Press, 2001). <戻る>
  2.  
  3. エドワード・W. サイード, 板垣雄三, 杉田英明監修, 今沢紀子訳 『オリエンタリズム』 平凡社ライブラリー, 1993年, 上巻, pp.19-24 などを参照。 <戻る>
  4.  
  5. P. F. シュガー、I. J. レデラー編, 東欧史研究会訳 『東欧のナショナリズム ―― 歴史と現在』 刀水書房, 1981, p.478, p.513, n.45. <戻る>
  6.  
  7. この点については枚挙にいとまがないが、差しあたり、次の二点を挙げておく。ジョン・M. マッケンジー著, 平田雅博訳 『大英帝国のオリエンタリズム ―― 歴史・理論・諸芸術』 ミネルヴァ書房, 2001. 北川勝彦, 平田雅博編 『帝国意識の解剖学』 世界思想社, 1999. なお、現在流行している「帝国」論については、以下の論文が歴史学の立場から「整理」を試みていて興味深い。木畑洋一 「現代世界と帝国論」『歴史学研究』 776号, 2003年6月, pp. 2-8. <戻る>
  8.  
  9. 杉原達 『オリエントへの道 ―― ドイツ帝国主義の社会史』 藤原書店, 1990. 特に、第4章「皇帝旅行に示されたオリエント侵出思想の社会史的考察」を参照。 <戻る>
  10.  
  11. 「アガメムノンのマスク」を発見したとされる H. シュリーマンは、謎が多く、毀誉褒貶相半ばする人物である。彼は多くの意味で魅力的であり、興味の尽きない人間であるが、有り難いことに、最近、信頼に足る伝記の邦訳が出されている。デイヴィッド・トレイル著, 周藤芳幸, 澤田典子, 北村陽子訳 『シュリーマン ―― 黄金と偽りのトロイ』 青木書店, 1999. <戻る>
  12.  
  13. 大学の「社会的有用性」や「社会的貢献度」をどのようにして判断するのか、という点は今も昔も難しい問題である。全ての分野に「即効性」を求めるのは無理があるにしても、だからといって「非実用性」にこそ大学の存在意義があると開き直るのも問題であろう。日本の問題はともかくとして、19世紀後半のドイツにおける学問と社会の関係については、差しあたり、以下の二点が参考になる。フリッツ・K. リンガー著, 西村稔訳 『読書人の没落 ―― 世紀末から第三帝国までのドイツ知識人』 名古屋大学出版会, 1991. 潮木守一 『ドイツの大学 ―― 文化史的考察』 講談社学術文庫(1022), 1992. <戻る>
  14.  
  15. 本文においては触れられなかったが、「ギリシア熱」に関して言えば、19世紀前半のドイツにおけるギリシア協会の活動は重要である。1819年のカールスバート(カルロヴィ・ヴァリ)決議等によって政治活動が大幅に制限されたドイツ社会において、ギリシア独立戦争を支援する「市民」たちの「非政治的」アソシエーションは、その後の政治運動につながる基盤となったからである。ただし、ドイツ全土においてギリシア支援運動が一様に発展したわけではない。ハウザーによれば、主として南西ドイツにおいてギリシア協会による積極的な活動が見られたようである。Christoph Hauser, Anfänge bürgerlicher Organisation: Philhellenismus und Frühliberalismus in Südwestdeutschland  (Göttingen: Vandenhoeck & Ruprecht, 1990). なお、本書については以下の書評がある。田熊文雄 [書評]「クリストフ・ハウザー著『市民的組織化の諸端緒 ―― 南西ドイツにおけるギリシア独立支援運動と初期自由主義』」 『西洋史学』 205号, 2002, pp.86-89. <戻る>
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