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1989年のいわゆる東欧革命以降、「市民社会論ルネサンス」とでもいうべき状況が生まれている(1)。邦語文献に限ってみても、「市民社会」と「公共性」をキーワードとする論文の数は飛躍的に伸びているようだ。その点は、山口定が指摘するように、国立国会図書館のデータベースである雑誌記事索引で確認することができる。だが、「市民社会」という用語は多義的であり、論者によって意味する内容が異なる厄介な概念である。しかも、論じられる文脈によって、「市民社会」は、分析概念となったり規範概念となったり、あるいは、実地の運動を念頭に置く戦略的概念となったりする。まさに、百家争鳴といった状況であるが、こうした中では、市民社会論についての交通整理を行うことすら不可能に思えるほどだ。
さて、このルネサンス現象の中で、歴史学は何をすることができるだろうか? 主として18世紀以降の欧米で営まれてきた市民社会の実態を把握し、歴史的な総括を行えば、些か混乱している現代の市民社会論に何らかの指針を与えられるのだろうか? その点は定かではない。だが、少なくとも、ヨーロッパ各国における市民社会の比較を行っている J. コッカらの仕事は、重要であろう(2)。ハーバーマスが、自身の哲学に即した「市民社会」概念を用いて歴史分析を行ったのに対し、コッカたちは、そうした「拘束衣」を取り払い、一つの枠には収まらない多種多様な市民社会の実像を明らかにしたからである。(もちろん、そうだからといってハーバーマスの重要性を否定するつもりは全くないが)。
しかしながら、市民社会の多様性を明らかにしたとして、その先には何が残るのだろうか? そうした疑問を抱いている最中に出会ったのが、今回紹介するフランク・トレントマンが編集した本書である。『市民社会のパラドクス』と題されたこの本は、理論家と歴史家による対話の結果として生まれたものであり、歴史学系市民社会論の新しい方向性を示す研究として注目されよう。実証的アプローチに終始し、市民社会の僅かな断面を切り取って終わるのでもなく、18世紀の「スコットランド啓蒙」以来、蓄積されてきた市民社会論を、歴史的文脈を無視して引用することもなく、理論家と歴史家が共同作業を行う。そうした試みが本書で行われているのである。
ただし、本書には16本もの論考(序章を含む)が収められていることもあり、全体としての統一感に欠ける部分もある。ここでは、結社(アソシエーション)、「アウトサイダー」、市場という3つの要素に着目し、それに対応する論文を見ていくことにしよう(3)。
まず第一に、市民社会にとって不可欠の要素とされる結社を取り上げてみたい。18世紀のイギリスにおいて自発的結社が急激に増加し始めて以来、様々な論者がアソシエーションに注目し続けてきたが、その代表的な例は『アメリカの民主政治』を書いた A. トクヴィルであろう。彼は、アメリカにおける活発な結社活動が、デモクラシーの発展に寄与していると考えたのであった。人々は、結社に加入することにより、他者との交流を深め、政治的感覚を身につけていくのである。トクヴィル ―― そして、彼の主張を引き継いだパットナム ―― によれば、政治とは無関係な結社についても、その点は同じであった。合唱団や野鳥観察クラブといった団体もまた、自己鍛錬の場を提供し、参加者に「市民性 civility」を付与する機能を持っているというのである(4)。
しかしながら、結社の増加がアプリオリに市民社会の進展を意味するわけではない。R. ダーレンドルフは、結社を、国家から市民社会を守る「創造的カオス」と位置づけたが、全ての結社が「市民性」を志向しているわけでもないし、民主的だというわけでもない(Trentmann, p.22)。『市民社会のパラドクス』では、結社に関わる論考として、ドイツの新聞発行団体(第5章)、ライプツィヒのフリーメーソン(第6章)、ドイツの体操協会(第7章)という3つの論文が収められているが、ここでは特に、体操結社を扱ったマクミランの論考を元に、その点を見ていくことにしよう。
ドイツにおける体操運動は、フィヒテによる一連の講演『国民に次ぐ』(1807-08年)に応じる形で生まれている。彼は、体操教育によって身体を鍛え、国民としての自覚を持たせ、フランスに対抗できるだけの国民軍を育成せよ、と訴えかけたのであった。それに答えたのが、後に「体操の父」と呼ばれることとなるヤーンである。1810年、ベルリン郊外で運動を始めたヤーンは、訓練によって若者(男性)を統合し、彼らの間に国民という抽象的な集団意識を植え付けようとしたのであった(181)。
ドイツ国民の育成を目指す体操運動は、他方では、受動的な臣民を積極的な市民へと変えることも意図していた(182)。例えば、1846年、ザクセンの或る体操協会は、自らを「立憲体制における活動的市民」を育成する「人民の学校」と位置づけている。体操運動は「身体や精神の健康」だけではなく「遵法精神、自由、徳性」の育成をも目指しているのであった。当時の体操運動は、概して、政治的な実践の場であることを誇りにしていたのである。年毎の選挙による幹部の選出、組織内部の裁判手続きによる問題の解決、定期的な会合における討論の訓練などにより、体操運動は、市民社会のミクロコスモスを創出しようとしていたのであった。1840年代において、当局は、体操運動を政治活動の「温床」として危険視していたほどである。
1863年8月、約23,000名の体操家たちが集結してライプツィヒで行われた体操祭典では、歴史家のトライチュケが「名演説」を行ったとされている(176)。ナポレオンに対する勝利50周年を祝したこの演説において、彼は、「市民社会」という言葉こそ用いなかったものの、ドイツにおける「自律的市民」の成熟を称えたのである。彼によれば、未だ統一国家は実現していないものの、経済的な繁栄や教育の普及が現実のものとなり、更には、「びくびくした」農奴が「独立心を持った」農民へと成長したのであった。トライチュケは、ドイツ人の「意志、活力、情動」に期待し、来るべき市民社会の有り様を提示したのである。
だが、トライチュケの描く将来像においては、国家と市民社会の関係は曖昧であったという。その点は、自由派あるいは進歩派を自認していた大多数の体操家についても同じであった(187-189)。彼らは、国家と市民社会が調和し、共に進歩の担い手として手を携えて進んでいくというイメージを抱いていたのである。この点は、ドイツにおける国家と市民社会の区別が英米やフランスよりも遅かったというジョン・キーン John Keane の主張と符合している。また、英語・仏語の「市民 citizen/ citoyen」に対応するドイツ語が「国家市民 Staatsbürger」になったという事実も、この点を示唆しているように思われる(5)。
第二に、市民社会と「アウトサイダー」の関係について考えてみたい。19世紀のヨーロッパにおいて、「市民層」に含まれる層が拡大し、市民社会のメンバーと「アウトサイダー」との境界が流動化したが、その点から、市民社会の質的な変化を読みとることができるだろう。職人層、女性、ユダヤ人、労働者、といった人々が、ある時には市民社会の構成員と見なされ、ある時には「のけ者」とされてしまう。本書においては、イギリスの女性(第8章)、ドイツの農民(第9章)、ドイツの宗派(第10章)、ドイツの娼婦(第11章)といった4種類の「アウトサイダー」を扱った論考が収められているが、ここでは、娼婦に焦点を当てたルーズの論文を取り上げてみたい。
「社会国家化」の途上にあった19世紀後半のドイツにおいて注目されるのは、いわゆる「ブレーメン・システム」であろう(266-267)。1878年以降、ブレーメン市当局は、娼婦を管理の対象と見なし、売春を非合法化するのではなく規制する方向に向かったのであった(規制主義 regulationism)。その結果、娼婦の全体数は75名に制限され、その全てが特定の区域に閉じこめられてしまう。彼女たちは、その区域から外に出る場合には、定められた服装をしなければならなかったし、当局からの許可を得られなければ、博物館や劇場、病院といった公的な場に行くこともできなかった。1911年にドレスデンで行われた国際衛生博覧会では、ブレーメン市はこのシステムを「展示」し、その衛生効率の良さを誇ったという。影響力のあるドイツ性病予防協会 DGBG は、この「ブレーメン・システム」を国家的政策として採用するよう要求したし、実際、第一次大戦中には、軍隊が「ブレーメン・システム」に基づいた売春宿(いわゆる後方兵站基地慰安所 Etappenbordelle)を運営していたのである。
ところが、このシステムは、1920年代半ばには支持を失い、当局公認の売春制度を撤廃しようとする「廃止論」が勝利を収めることとなる(268-269)。その先頭に立っていたのは、「市民的 respectable」存在として自らを位置づけようとしていた女性であった。女性の廃止論者たちは ―― 中には、娼婦を男性社会が有するダブルスタンダードの犠牲者と見る者もいたが ―― 基本的には男性中産階級の偏見を共有し、下層階級の性的道徳の欠如を娼婦に見出していたのであった。戦後になって初めて選挙権を獲得した女性(の廃止論者)は、「公的女性」として男性以上に娼婦を敵視し、彼女たちを社会的に排除する方向に向かったのである。
その結果成立したのが、社会民主党、フェミニスト、保守的「道徳右派」の間の奇妙なコンセンサスであり、1927年10月に成立した「性病撲滅に関するライヒ法 RGBG」であった(264-265)。この新法は、当局が売春を管理する19世紀型「規制主義」を廃止し、―― 売春そのものは犯罪としなかったが ―― 売春宿を非合法化したのである。
ブレーメンにおいても、売春宿の区域は一般居住区となり、市の社会福祉事務所 Pflegeamt は、元の住人たちに「ちゃんとした respectable」生活を送るように諭したのであった(270-273)。だが、元住人の多くが引き続き同じ場所に居住し、売春を継続したことから、新しく移ってきた「一般市民」との軋轢が発生し、裁判沙汰となるケースが多数発生したのである。
そうした中で生じたのが、娼婦たちの自己組織化であった。彼女たちは、結社を構成し、集団で弁護士などの助言者を雇い、自らの権利を守り始めたのである。例えば1927年9月には、フランクフルトの娼婦たちが「ピケ」を張り、定期健康診断を市立病院で受けるようにという保険局の命令に抵抗したのであった。だが、自分たちを「市民」として位置づけようとする彼女たちの動きに対し、「堅気の respectable」市民社会からの反発も強まったのである。それは、複数の市民社会による「市民性 civility」をめぐる闘争であった。
ルーズによって提示された娼婦による自己組織化の事例は、従来の市民社会論においては見落とされていたケースであろう(274-275)。市民社会の「新参者」であった女性と「のけ者」であった娼婦が「市民性」をめぐってせめぎ合うという構図は、ドイツにおける男性中心的な市民社会の実態を逆照射するものとして重要である。この事例は、フーコーによる「生=権力論 bio-power」だけで説明されるべきことではないし、また、ドイツにおける「市民性」の欠如 ―― 「ドイツ特有の道」論(6) ―― を示す証拠として扱われるべきものでもない。
第三に、市場と市民社会との関係について見ていくことにしよう。1990年代以降、旧東欧やラテンアメリカ、そして西欧においても、市民社会がグローバル資本主義に対抗する上でのポスト・マルクス主義的代替物と見なされたことから、市民社会と市場を切り離して考える傾向が強まっている(Trentmann, pp.29-30)。象徴的であったのは、チェコスロヴァキア(現チェコ)の反体制派作家であった V. ハヴェルであろう。彼は、消費社会と全体主義を超越する反−市場と反−国家の市民社会像を描いていたのである。
だが、かつての市民社会論においては、市場は極めて重要な意味を持っていた。特に、マルクス主義以前の理論においては、市場は社交性 sociability の問題と同様に捉えられていたのである。つまり、市場が人間相互の交流を生み出し、メンバーの礼儀正しさや相互理解を促進する場と見なされたのであった。だが、マルクス主義の社会的影響力が増大し、国家機能が経済領域を含むようになると、市民社会と市場の関係も大きく変容することとなる。ここでは、そうした転換期を迎えていた20世紀初頭のイギリスに焦点を当てたトレントマン論文(第13章)を取り上げることにしよう。
イギリスにおいて、経済と市民社会に関する議論が沸騰したのは、1903年、J. チェンバレンが保護貿易への転換を主張し、関税改革の一大キャンペーンを展開した時であった(307-309)。これに対し、自由貿易論者たちは、保護政策ではイギリス経済を立て直せないと反論し、更には、保護貿易が市民社会の健全な発展を阻害するとも述べたのであった。翌1904年に出版され、12年までに11万部も売れた『飢餓の40年代 Hungry Forties』は、後者の立場を代表する著作である。この本は、穀物法に代表される保護主義時代の苦難に満ちた歴史という記憶を巧みに演出し、穀物法の廃止(1846年)によって、ようやく市民社会と民主化の時代が始まったという物語を提供したのであった。また、ドイツは自由貿易の対抗イメージとして描写され、黒パン、馬肉、犬肉を食らい、軍国主義にひた走る暗黒の国家として表象されたのである。その文脈においては、ドイツの関税は相対的に低く、社会的不平等もイギリスよりもむしろ少なかったという事実は無視されたのである。
しかしながら、自由貿易論者にしても、自由主義そのものの内容は変化し始めていた(311-314)。当時、台頭しつつあった新自由派(new liberal)や労働党では、植民地支配の現状に対する反省から、自由主義経済と文明化のアプリオリな関係に疑問を呈する動きが現れていたのである。
例えば、新自由派の代表的な論者であった J. A. ホブソンは、自由主義を前提としながらも、その問題点を改善する必要性を訴えている。社会の抱える官僚主義化、分業の深化、人間精神と身体の平準化、共同体からの個々人の孤立化、といった問題を放置すれば、市民社会は単なる大衆社会へと堕し、ひいては文明そのものが危機に陥る、というのであった。
ホブソンは、そうした現状を打開する方策として、受動的な客体である消費者を積極的な市民へと変えること、すなわち、良き「市民=消費者 citizen-consumer」の育成を提唱している。これにより、人間関係は官僚主義的で即物的なものから「有機的 organic」なものとなり、「競争的・産業的・大衆的生産」によって弱められた民主的な感覚が復活、最終的には、あるべき「市民的営み」が回復されるのであった。
だが、第一次大戦後のイギリスにおいては、自由貿易は市民社会と切り離されて考えられるようになった(320-325)。自由貿易そのものに対する信頼の低下が、その原因であった。協同組合の多くは、「国家 vs. 市民社会」という従来の構図を超えて、国家と共同して貿易をコントロールする方向に向かったし、社会改革を求める勢力も、雇用を確保するという意味での貿易規制を支持するようになったのである。
そうした変化は、ホブソンの主張にも明瞭に表れていた。国家に対する信頼を強めていた彼は、労働組合と協同組合の双方が官僚化し、特定利益の代表者と化してしまったと非難し、全体的利益の調整という役回りを国家に割り振ったのであった。彼の議論において、国家は、「市民=消費者」の守り手へと、そして共同体全体の保護者へと昇格したのである。
以上、3つの論考を中心に『市民社会のパラドクス』を見てきた。確かに、全体としてのまとまりに欠けるような気もするが、歴史家と理論家との対話によって「市民社会論を歴史化する」本書の試みは、歴史学系市民社会論の新しい方向性を示す意欲的な仕事ということができよう。だが、市民社会は、21世紀初頭の今日においてもアクチュアルな問題であり続けている。これからの市民社会論を考えるうえで、歴史学は何をすることができるのか? 最初に提示したこの疑問について、私自身はまだ回答を見いだせないままである(7)。
2004年6月23日記
註
- 山口定『市民社会論 ―― 歴史的遺産と新展開』 有斐閣, 2004年, pp.2-4. 千葉眞「市民社会論の現在」(思想の言葉)『思想』 924号, 2001年, pp.1-3. <戻る>
- 山口, 前掲書, pp.175-182. 最近邦訳されたコッカの業績として以下のものが挙げられる。ユルゲン・コッカ編著, 望田幸男監訳『国際比較・近代ドイツの市民 ―― 心性・文化・政治』 ミネルヴァ書房, 2000年. ユルゲン・コッカ著, 松葉正文, 山井敏章訳「歴史的問題および約束としての市民社会」『思想』 953号, 2003年, pp.34-57. ユルゲン・コッカ著, 斎藤真緒, 松葉正文訳「歴史的プロジェクトとしての市民社会 ―― 近代ヨーロッパの比較史的研究」『立命館産業社会論集』 37巻3号, 2001年, pp.147-157. なお、ドイツにおける「市民社会論ルネサンス」の背景については、森田直子「近代ドイツの市民層と市民社会」『史学雑誌』 110編1号, 2001年, pp.100-116. が参考になる。<戻る>
- 本書の構成は以下のとおりである。
- Introductory Perspectives
- Introduction by Frank Trentmann
- Reflections on the Making of Civility in Society by John A. Hall
- Conceptual Origins
- “The Commerce of the Sexes”: Gender and the Social Sphere in Scottish Enlightenment Accounts of Civil Society by Mary Catherine Moran
- Kant, Smith, and Hegel: The Market and the Categorical Imperative by Rupert H. Gordon
- Immanuel Kant's Two Theories of Civil Society by Elisabeth Ellis
- Associational Life and the Education of Citizens
- The Intelligence Gazette (Intelligenzblatt) as a Road Map to Civil Society: Information Networks and Local Dynamism in Germany, 1770s-1840s by Ian F. McNeely
- Club Culture and Social Authority: Freemasonry in Leipzig, 1741-1830
- Energy, Willpower, and Harmony: On the Problematic Relationship between State and Civil Society in Nineteenth-Century Germany by Daniel A. McMillan
- The Limits of Inclusion
- Civic Culture, Women's Foreign Missions, and the British Imperial Imagination, 1860-1914 by Steven S. Maughan
- The Village Goes Public: Peasants and Press in Nineteenth-Century Altbayern by John Abbott
- Religion and Civil Society: Catholics, Jesuits, and Protestants in Imperial Germany by Róisín Healy
- Prostitutes, Civil Society, and the State in Weimar Germany by Julia Roos
- Political Culture and Social Citizenship
- Oligarchs, Liberals, and Mittelstand: Defining Civil Society in Hamburg, 1858-1862 by Madeleine Hurd
- Civil Society, Commerce, and the “Citizen-Consumer”: Popular Meanings of Free Trade in Modern Britain by Frank Trentmann
- Socialism, Civil Society, and the State in Modern Britain by Mark Bevir
- Civil Society in the Aftermath of the Great War: The Care of Disabled Veterans in Britain and Germany by Deborah Cohen <戻る>
- ロバート・D. パットナム, 河田潤一訳『哲学する民主主義 ―― 伝統と改革の市民的構造』 NTT出版, 2001年, pp.107-108. なお、トクヴィルについては、A. トクヴィル, 井伊玄太郎訳『アメリカの民主政治』 講談社学術文庫, 1987年, 下巻, pp.200-208.
余談であるが、一世を風靡したパットナムの『哲学する民主主義』は ―― 土佐弘之の指摘によれば ―― 現在のアメリカにおけるネオコン(新保守主義)と不思議な共犯関係に陥っているようだ。過剰な福祉国家型の国家介入を批判し、失われた古き良き自律的アソシエーションの再興を唱える新保守主義的ネオ・トクヴィル主義者は、パットナムの大ブレイクを一つのきっかけとして勢いづいてしまったからである。その意味では、パットナムの議論は、市民社会と資本主義との親和性を信じるスミス=ファーガソン的市民社会論の現代版を用意したと言えるのだろうか。土佐弘之『安全保障という逆説』 青土社, 2003年, pp.45-46. <戻る>- この点については、松本彰「ドイツ『市民社会』の理念と現実 ―― Bürger 概念の再検討」『思想』 683号, 1981年, pp.27-53, esp. pp.33-37. を参照。 <戻る>
- 「ドイツ特有の道」論については、ゴルターマン『国民の身体』の書評を参照。 <戻る>
- その点において、山口定の前掲書は注目に値する文献である。彼は、これまでの市民社会論に対して交通整理をしつつ、これからの実践的な「新しい市民社会論」に向けて、真摯に取り組む姿勢を見せている。 <戻る>
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