ドイツ体操運動の創始者、ヤーンの記念碑(Jahnmalhugel)。その全体像、1913年ヘプ。出典: Heinrich Mahr, 100 Jahre Turnverein Eger 1863-1963, Amberg, 1963, p.16. 高さ11メートル、直径36メートルの丘の上に「ヤーン石」が乗っかる格好になっている。第一次世界大戦までにはオーストリアで合計116のヤーン記念碑が建てられたが、そのうちの5分の4はチェコにあった。ヘプでつくられたこの記念碑はその中でも最大のものである。 |
先ほど言及したエーガー(ヘプ)体操協会の創設百周年(1963年)であるが、その記念行事は、ヘプではなく旧西ドイツ側のマルクトレドヴィッツ(地図9)という小さな街で行われている。第二次世界大戦の後、チェコスロヴァキアに住んでいた三百万強の「ズデーテンドイツ人」はナチスへの「報復措置」として「追放」されてしまったからである。ヘプにいたドイツ人の場合は、チェコ国境からそう遠く離れていないマルクトレドヴィッツに住み着いたのであろう。少なくとも、エーガー体操協会はこの街に本拠を移し、名称を変えることなく活動を続けているのである。
1948年の「追放」以降、空っぽになった「ズデーテンラント」にやって来たのは、チェコ人であった。当然のことながら、現在のヘプに住んでいるのもそのチェコ人である。だが、チェコ人の中の一体どのような層が、主を失った街に住み着くことを望んだのであろうか? たまたま、北西ボヘミアのヂェチーン(地図1)出身の大学院生(J.C.)と雑談をしていた時に、興味深い話を聞いたのでそれを紹介しておこう。
ヤーン記念碑・頂上部。出典: 100 Jahre Turnverein Eger 1863-1963, p.15. 高さ5メートルの「ヤーン石」の周りを3羽のワシが守っている。「ヤーン石」に刻まれたマークは、ドイツ体操運動のスローガンである4つのFを組み合わせて作ったもの。4つのFとは、Frisch(快活な、清潔な)、Fromm(敬虔な), Froh(快活な), Frei(自由な)である。ちなみに、キースリングは、1940年、このシンボルがナチスのハーケンクロイツの元になっていると主張したが、真偽のほどは定かではない。 |
彼の父親は、1948年の「二月事件」の後、共産党の一党支配が次第に強まりつつあった時代にも党に入党せず、そればかりか体制への批判も遠慮なくやっていたらしい。さすがに逮捕されるようなことはなかったらしいが、反体制的な人物ということで出世の可能性を奪われ、ヂェチーンに送られてしまったのだという。ヂェチーンにおける新住民の第一グループは、こうした「要注意人物」によって構成されたのであった。また、厄介なことに、共産党に忠実な人物が彼らの「上司」としてヂェチーンに派遣されていたようである。もちろん、こうした第二グループにおいて重要なのは体制に忠実かどうかという話であって、仕事ができるか・できないかという話ではなかった。党員でありながら中央での出世を望めない人物が、キャリアアップをはかる為にヂェチーンに行った、というケースもかなりあったのだろう。そして、第三のグループを成したのがロマ人(ジプシー)であった。ロマ人の「定住化政策」を進めていた共産党にとっては、建物が大量に余っている「ズデーテンラント」は格好の「定住先」と映ったに違いない。筆者自身はこの件に関して調べたことがないため、正確な数は分からないが、かなりのロマ人が「ズデーテンラント」に送られたことは事実であろう。
「要注意人物」とその「監視役」、ロマ人という全く新しい住民によって再構成されたヂェチーンでは、人びとの自然な交流が進まず、結果として、非常にぎこちないコミュニティーが誕生したという。驚くべきことに、こうした「ぎこちなさ」は89年まで続いたのであった。ヂェチーンで気軽なコミュニケーションが行われ、「共同体」の感覚が生まれ始めたのは、共産党による一党独裁が終わった後であったらしい。もちろん、ロマ人は依然としてその「共同体」から排除されているし、こうしたケースがヘプにも当てはまるとは限らない。が、ドイツ人「追放」後の「ズデーテンラント」では、多かれ少なかれヂェチーンに似たようなことがあったのではないだろうか?
それにしても、である。当然といえば当然なのであるが、ヘプの街を歩いていても、ドイツ人が住んでいたという痕跡はなかなか見えてこない。街に一軒しかないという駅前の古本屋(住所は trida svobody)に立ち寄ってみても、ドイツ語で書かれた歴史書はほとんど見あたらなかった。店の主人も自分の分としてドイツ語の本を集めているらしく、そのコレクションを見せてくれたが、筆者の物欲しそうな顔を見て警戒したのであろう、これは絶対に売りませんからと釘を刺すことを忘れなかった。
ヘプ地区アルヒーフ (Statni okresni archiv Cheb)、2000年7月4日 |
ヘプの地区アルヒーフを目指して歩いていたときに、そのアルヒーフと同じ一角(住所は Frantiskanske nam.)に「ドイツ人同盟」(Bund der Deutschen --- Svaz Nemcu)という看板のかかった建物があるのに気づいた。「ブント」というドイツ語を見て何となく警戒心を抱いてしまったが、それはチェコでの留学生活で培われた「固定観念」の為であろうか? 冗談(?)はさておき、「ドイツ人同盟」という名前に関心を抱いた筆者は、ともかくも建物の中に入ってみることにした。現在、チェコとドイツの間で問題となっている「ズデーテンラント」の財産返還に関わる組織だろうか、と勝手に想像していたが、どうもそうではないらしい。係の人に聞いてみると、この「ドイツ人同盟」は、そうした政治的な問題ではなく、あくまで文化的な交流を進めることを目的として1990年代に創設されたのだという。会員のほとんどは「追放」を免れてチェコに残留したドイツ系住民 --- 極めて少数ではあるがそのようなドイツ人も存在する --- だという話であったが、活動自体はあくまでオープンにやっているらしい。ドイツ語のコースや、ヘプの歴史に関する各種のセミナーをヘプ市民に提供するだけでなく、チェコ人とドイツ人の子どもたちをお互いに国境の向こう側でホームステイさせる、といったこともしているようである。また、5000冊のドイツ語本を持つ図書室もあるが、係の人の話では、蔵書のほとんどは寄付されたものなので、歴史の研究者には向かないということであった。「日本からわざわざやって来た人に、スティーヴン・キングの独訳なんかを読ませるわけにはいかないでしょう?」 確かにそのとおりではある。
さて、いつまでも「ドイツ人同盟」で油を売っているわけにもいかないので、ヘプ地区アルヒーフに行ってみることにした。もちろん、二日間という滞在期間では、アルヒーフのすべてを把握することはできないため、今回は、このアルヒーフでより本格的な調査をする必要があるかどうかを確認するだけである。あくまで結社に関する警察記録に限った話であるが、ひととおり資料を見せてもらった感触から言えば、ここのアルヒーフは「当たり」であった。「ズデーテンラント」のアルヒーフといっても、そもそもドイツ系結社に関する資料を持っていないところもあるし、持っているという返事をもらったとしても、実際に行ってみると、それほどでもなかったりするから、ヘプのアルヒーフはかなり良い方である。資料が良く整理されていて、しかも、文書館員(アルヒーフの職員)が親切な方だったので、作業は楽であった。
文書館員のパーソナリティーについてとやかく言うべきではないのだろうが、実際のところ、これが調査の効率に大きく影響する点は否定できない。アルヒーフの作業は慣れるまでに時間がかかるものであり、館員の方から情報を提供してもらったり、こちらの気がついてない点を指摘してもらったりすると、ずいぶんと有り難いものである。また、地区アルヒーフのほとんどは月曜と水曜日しか開館しておらず、泊まりがけで行っても火曜日が無駄になったりするのだが、館員の裁量で、他の曜日に開けてもらうことも可能である。こんな事をいっては失礼かもしれないが、田舎のアルヒーフの場合は訪れる人も少なく、館員も時間を持て余していることが多い。時として、簡単な質問をしていたつもりが雑談となり、気がついたらお茶を出してもらっていたということもある。田舎のアルヒーフならではの楽しみであろう。
また、地方の場合には資料の絶対量が少ないので、全体を把握するのが比較的容易だという利点もある。ヘプの場合には、1844年から1938年までの間に当局に登録された結社(アソシエーション)の数は約700、そのうち、体操やスポーツに関わる結社は55(ドイツ系45、チェコ系7、ユダヤ系3、付録1参照)だから、その具体的な内容までは分からないにしても、全体としてどのような感じになっているかはすぐに掴むことができる。ちなみに、プラハの場合には、1895年から1990年までの間に登録された結社の数が18000を越え、そのうち体操やスポーツに関わる結社は2250であるから、こちらは名前をチェックするだけで一仕事となる。
ヘプでの情報源となるのは、街で一軒だけの古本屋、「ドイツ人同盟」とこのアルヒーフの三カ所ぐらいであるが、文書館員の話だと、さらにもう一カ所、ヘプ博物館付属の図書室が「お薦め」らしい。この図書室もアルヒーフや「ドイツ人同盟」と同じフランチシュカーンスケー広場にあったのだが、残念ながら、筆者がヘプを訪れた7月3日(月)と4日(火)には、図書室の係員は全員休暇中であり、中に入ることができなかった。チェコでは7月5日(水)と6日(木)が「ヤン・フスの日」ということで祝日となるため、あいだの平日を埋めて連続休暇にする人が多かったらしい。どうやらこんな時に調査に来てしまった筆者の方が悪いようだ。なお、この図書室は、通常、毎週月曜日の午前と午後が開室日である。