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2.参加者、あるいは傍観者へのインタヴュー


ティルシュ像
ティルシュ像(ティルシュ博物館)、2000年7月2日

 では、実際に体操に参加している人々は、今回の祭典をどのように考えているのだろうか。7月2日の午後、1日の午後とほぼ同じプログラムで集団体操が行われると聞いた筆者は、スタジアムの中に入るのをやめ、入り口のすぐそばに設けられていた売店(正確には hospoda)に陣取って、ビールを飲みにやって来る体操家たちに直接話を聞くことにした。

 今回の祭典では、彼らは交通費などの支給を受けておらず、すべて自分持ちで参加しているようであった。全員が集まっての練習を行うために、地方の参加者たちは、祭典の数日前から休暇を取ってプラハにやって来たという。それでも、本番を終えたばかりで気持ちが高揚しているためか --- あるいはビールで気分が良くなっているためか --- 例外なく祭典に参加できて良かったという答えが返ってきたのであった。

 だが、あたりを見回してみると、年輩の参加者が多く、若い世代はあまり見られなかった。もちろん、女性の場合には比較的若い層も含まれていたし、集団体操のプログラムには、母親と小さな子供が一緒に参加するものや、15、6歳ぐらいまでの学校の生徒によって行われるものがあったことから、子どもたちの姿も数多く見られた。だが、20代、30代ぐらいの男性がいないというのは否定しようのない事実である。ボヘミア西部からやってきたという60代の男性(技師)は、こう答えている。

 確かに若い人がいないというのはソコルにとって大きな問題です。スパルタキアーダ[共産主義時代の体操祭典]に比べても、今のソコル祭典は非常に小さなものとなってしまいました。今回は、参加者が少ないために、小さなスタジアムで体操をやっていますが、本当は、隣にある大きなスタジアムで体操をやるはずだったんですよ。前回[1994年]のソコル祭典や89年以前のスパルタキアーダのようにね。だけど、大事なのは数ではなくて、自由意志で祭典に参加できるということです。私たちは、本当に体操をやりたくてここにいるのです。スパルタキアーダの頃はそうではなかったですからね。これは大きな違いです。
 モラヴィア南部からやって来たという20代の女性(店員)は、ソコルの将来について以下のように答えてくれた。
 これからもソコルがちゃんと続いていくかどうか、正直言って分かりません。だけど、今回の祭典に参加してみて何だか希望みたいなものを感じたのです。今のソコルには若い人が少ないし、私の場合も母親が[ソコルの]「忠実なる親衛隊 Verna garda」に入っているという理由で参加しているだけなんですが、祭典に参加した子どもたちがこれをきっかけにソコルに目覚めてくれれば、これからの活動も安定するのではないでしょうか。楽観的すぎるかもしれませんが。

 その夜、ソコルには特に関心を持っていない20代の若夫婦と話をする機会があった。1955年から85年まで五年ごとに開かれていた旧体制下のスパルタキアーダについて聞いてみたところ、J(女性・大学生)の側は非常に強い憧れを持っていたという。彼女は巨大なスタジアムで体操することを夢見ていたが、残念ながら対象年齢ではなかったために参加できなかったらしい。だが、だからといって今のソコルに参加する気持ちはないようだ。一方、F(男性・工科大の助手)は集団主義的なものすべてが嫌いらしく、スパルタキアーダには全く興味がなかったという。彼にしてみれば、スパルタキアーダもソコルも同じであり、共に個人を集団に埋没させるものでしかない、と言うのである。
大スタジアム、2000年7月2日

1932年・第9回ソコル祭典の際に建設された大スタジアム。フィールドは横幅約310メートル、縦幅約200メートルあり、同時に16000名が体操できるように設計されている。(ただし、1938年の第10回祭典では30000名以上による男性の集団体操が行われている。「はじめに」の写真参照)。2000年の祭典では参加人数の少なさや経済的な事情といった理由からこの大スタジアムは用いられなかった。なお、目の前に見えているプレハブの建物は臨時に設けられたものであり、スタジアム本来の施設ではない。2000年7月2日撮影。

 一方では、民主主義と自由という良き伝統。他方では、個人を犠牲にする集団主義。双方ともソコル運動が持っている特質である。マサリクが実際に体操していた19世紀後半、そしてマサリクが大統領であった戦間期であれば、ソコルが民主主義と自由の精神をもたらすという主張には大いに真実味が感じられたことであろう。身分や階級によって立ち居振る舞いや言葉遣いに大きな差が存在したこの時代に、体操着というシンプルな服に身を包み、体育館という空間を共有し、互いに「君」、「お前」で呼び合う。これは当時の社会に革命的な変化をもたらすものであった。労働者であれ、教師であれ、資本家であれ、彼らは同等な個人として、自発的に --- それがたとえ虚偽意識に基づくものであったとしても --- 新しい共同体へと参加していったのであった。この新しい共同体は、「市民的共同体」、あるいは「国民的共同体」を指すものと理解して良いだろう。いずれにせよ、この過程においてソコルは大きな役割を果たし、「民主主義と自由の担い手」として君臨することに成功したのである。

 だが、個人の存在が当然視される時代になると、「一人がみんなのために」というスローガンにはある種の胡散臭さがつきまとうようになる。とりわけ、89年以降の「自由」を謳歌する若い世代にとっては、ソコルはその「自由」を拘束するものと映ってしまう。「体操をしたい人はすればいい。しかし、スパルタキアーダのようにそれを強制されるのはごめんだ」、というのが若い人びとにとっての一般的な認識ではないだろうか。

 これに対し、1938年の第10回祭典、48年の第11回祭典を覚えている人びとにとっては、ソコルは共産化以前の「古き良き時代」と切っても切り離せない関係にある。第一共和国における「安定した」政治と経済、マサリクの民主主義、ソコル運動を通しての連帯感、といったものへの思いは、89年以降に現れた容赦のない「資本主義化」、モラルの荒廃、期待どおりには伸びない経済力、といった「現実」によって強化されていく。辛辣な言い方ではあるが、年輩の人びとが抱くソコルへの思いにはノスタルジックな側面が強い。筆者にとっても、これからのソコルがどのような道を歩むのかは分からない。だが、少なくとも以前の「伝統」を引きずっているだけでは、ソコルの将来は見えてこない。この点だけは確かであろう。


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