ソコルのパレード・その1、2000年7月2日 |
7月2日の午前10時からソコル会員による市内パレードが行われた。前回より規模が縮小されたとはいえ、1時間半に渡って2万名余りの会員が途切れることなく行進する様は、それなりにインパクトのあるものである。ソコル会員同士で交わされる「ナズダル!!(Na zdar!!)」という挨拶が飛び交い、「ソコル万歳! (At' zije Sokol!)」、「プラハ万歳! (At' zije Praha!)」といったかけ声がどこからともなくわき起こっていた。筆者の目の前に立っているおばあさんもまた、どこから出てくるのかと思うような大きな声と白いハンカチで盛んに声援を送っていたのであった。ちなみにここに掲げた二枚の写真にはいずれも彼女の手が写っている。
ソコルのパレード・その2、2000年7月2日。プラカードには Delnicky Americky Sokol(労働者アメリカ・ソコル)と書かれている。 |
パレードの中で目立っていたのは、何と言っても外国からやって来た約800名のソコル・メンバーであった。アメリカやカナダのチェコ系移民によって形成されているソコル協会を初めとして、他にもオーストリア、ドイツ、スイス、フランス、イギリス、オーストラリアなどからの参加者が見られたのであった。もちろん、今の在外ソコル協会ではチェコ語を知らない会員が増えてきているし、中には、チェコ人に会員を限定しないオープンなスポーツクラブに衣替えしたところもあるらしい。とはいえ、在外ソコル協会の多くは今もなお、移民コミュニティーの保持という国内のソコルにはない重要な機能を担っており、その点では、本国のソコルよりも強い団結力を維持しているようである。また、スロヴァキア、ポーランド、クロアチア、スロヴェニアといったスラヴ系のソコル会員も多数参加しており、「スラヴ人の団結」をアピールしていたのであった。国内のソコルについて言えば、都市部よりも農村部、特にモラヴィアからやって来た会員の方が多いようであった。筆者の前に立っていたおばあさんも「モラヴィアの人たちは元気ねえ」とつぶやいたほどである。推測の域を出ないが、農村部では都市部ほど関心が多様化していないこと、古い共同体が残存していること、といった点がソコルの活発さに結びついているのだろうか。
現在ではいささか牧歌的に見えるこのパレードも、1938年の第10回ソコル祭典の際には大きな政治的意味を持っていたに違いない。この時行われたパレードには今回の約10倍である20万名余りが参加し、その中には外国からの参加者、約9000名が含まれていたという。しかも、当時のプラハは --- 厳密には今もそうであるが --- チェコ人だけの街ではなかった。少数とはいえ住民の 5.0%(41,701名)がドイツ人、0.8% がユダヤ人(1930年当時)であったことを考えると、また、この時の大会が明確に反ナチス・ドイツの姿勢を掲げていたことを考えると、大人数による示威行動が強い政治性を持つものであったという点は明白である。
ソコルは、1862年に創設されて以来、1948年に至るまで常にドイツ人の存在を意識して活動を行ってきたと言えるだろう。もちろん、1860年代の前半においては、チェコ人とドイツ人の対立はまだそれほど深刻ではなかったし、誰がチェコ人で誰がドイツ人かという点も今から考えるほどは明確ではなかった。プラハにおいてもチェコ人のソコルとドイツ人の体操協会が別々に設立されてはいたが、お互いの交流は存在したし、イベントを行う際には相手方をゲストとして招待していたのである。
ところが、1880年代に入るとチェコ人とドイツ人の対立は深刻化し、両体操団体の関係も敵対的なものとなっていく。この時、象徴的な意味を持つようになったのがパレードと遠足であった。もちろん、大集団での徒手体操もネイションの団結力を示す上で重要ではあったが、それは実際に見に行かなければそれで済む話である。だが、相手方の生活圏に遠慮なく侵入してくるパレードや遠足となると事は違ってくる。例えば、プラハの目抜き通りを通り抜けていくソコルのパレードは、当然のことながら、ドイツ人の住居、ドイツ人の商店、ドイツ人の銀行の前を通過していったはずである。特に、ナプシーコピェ(Na Prikope)に位置するドイツ・ハウス(Deutsches Haus、現在の Slovansky dum)の前をソコルが通過する瞬間は、ドイツ人にとってもチェコ人にとっても、また、当局の人間にとっても緊張を強いられる時であったに違いない。実際、このドイツ・ハウスの前でドイツ人学生の集団とソコル・メンバーとの間で小競り合いが発生したという事件が、総督府の役人によって書き記されている。
また、地方に出かけていく遠足もまた、牧歌的なものではありえなかった。ユニフォームを着たチェコ人体操家の集団が、ドイツ人が多数住んでいる村に現れ、当地の少数派であるチェコ人と交流を深めて帰っていくケース、あるいは、逆にドイツ人の体操協会が遠足を企画し、ドイツ人少数地域に向かうケースについて、当局の人間が大いに警戒感を抱いたのは当然のことであった。言うまでもなく、今年のソコル・パレードは、そうした「民族問題」とはもはや無関係であり、その当時に感じられていたはずの緊迫感は存在しない。しかし、目の前を通り過ぎていく体操家たちの集団を目の当たりにすることによって、ほんの少しだけ、その重要さを実感することができた。これだけでも、祭典を見にプラハまで出かけた価値があったと言えるだろう。(単なる自己正当化かもしれないが)