ヘプの街並み・シュパリーチェクと呼ばれる建物(外壁が微妙に湾曲しているのが特徴)、2000年7月3日 |
ソコル祭典が終わった日の翌朝(7月3日)、筆者はドイツ国境からほんの数キロの所に位置するヘプ(地図7)へと向かった。電車で三時間ほどの道のりである。元々ヘプ(Cheb)は「ズデーテンラント」と呼ばれるドイツ人地域に属しており、エーガー(Eger)というドイツ語の名前を有する都市であった。例えば、1890年の国勢調査では、16,795名のドイツ人に対し、72名のチェコ人しかいなかったような街である。もちろん、この時期におけるドイツ人やチェコ人といったネイションの区別は、「民族意識」ではなく日々の生活で使う「日常語」によって行われていたし、雇用主の圧力の下で「ドイツ語」を使っていると答えたチェコ人労働者もいたはずだから、この数値を100パーセント鵜呑みにすることはできない。が、チェコ人少数地域にも組織を拡大しようとしていたソコルですら、1920年まではヘプに支部を作ることができなかったことを考えると、この街がドイツ人都市であったことは間違いのない話である。なお、宗教上の統計では、この街には503名のユダヤ教徒が住んでいたことを付け加えておこう。
ここで、筆者がソコル祭典のついでにヘプまで出かけていった理由について説明することにしよう。前節でも触れたように、チェコ人のナショナリズム、あるいはソコル運動が発展する過程においては --- 時にはあからさまに、またある時には無意識のレベルで --- ドイツ人の存在が意識されていたはずである。それはドイツ人についても同じであろう。チェコ人はドイツ人に比べて遜色のない文化的民族(Kulturvolk)になろうとしていたし、ドイツ人は、文化・政治・経済の各面で急速に力を付けてきたチェコ人に先を越されないように努力していたはずである。その中でも、強力な大衆動員力を持っている体操運動は重要な媒体であった。彼らは、常に相手方の動向を伺いながら、精神と肉体の両面に秀でたネイションを創ろうとしていたのである。チェコにおいて強力な体操運動が登場した背景には、何よりもまず、こうした「ライヴァル」への眼差しがあったのではないだろうか。
そもそも、人間のアイデンティティーは他者を媒介して形成されるものである。他者との関係によって人間は自己を形成し、また、他者の自己認識にも影響を与えていく。それは、ネイションという集団のアイデンティティーについてもかなりの程度当てはまる。ネイションとは「想像された共同体」であるという言い方が良くなされるが、それは「他者を想像する」という行為によっても補完されている。人が会ったことのない同胞を同胞として認識する時、それは同時に、同じく全く知らないはずの他者を他者として認識していることを意味している。「我々」と「よそ者」、「仲間」と「敵」といった線引きによって、人はネイションへの帰属意識を獲得していったのではないだろうか。
筆者がソコルだけでなくドイツ人の体操運動にも「手を出した」背景にあったのは、こうした「他者への眼差し」を抽出してみたいという欲求であった。だが、いわゆる「ズデーテンラント」においては中心と言うべきドイツ人都市が存在しないため、一つの街を調べれば片が付くという話ではない。筆者はプラハに留学していたときから「ズデーテンラント」をなるべく歩き回るようにしていたものの、時間不足の為にそのすべてを踏破できたわけではない。その中でも、ヘプの調査ができなかったということは筆者にとっては大きな心残りとなっていたのである。
地名一覧(括弧内は独語名) 1.ヂェチーン(テッチェン) 2.ウースチー・ナド・ラベム(アウシヒ) 3.テプリツェ(テプリッツ) 4.モスト(ブリュックス) 5.ホムトフ(コモタウ) 6.カルロヴィ・ヴァリ(カールスバード) 7.ヘプ(エーガー) 8.プラハティツェ(プラハティッツ) |