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Hartmut Becker, Antisemitismus in der deutschen Turnerschaft,
Sankt Augustin, 1980.
(ドイツ体操家連盟における反セム主義[反ユダヤ主義])

 

 少なくとも身体運動に限定すれば、近代的な反セム主義の流れは、ドイツ帝国よりもオーストリアにおいて最初に強くなったと言えるだろう(1)。例えば、オーストリア(旧ハプスブルク君主国の西側部分)のドイツ系体操運動では、1880年代後半から「アーリア条項」を採用してユダヤ人を追放する組織が出始め、ドイツ帝国に本部を置くドイツ体操家連盟(DT, Deutsche Turnerschaft)との対立を深めていったのであった。また、ワンダーフォーゲル(徒歩旅行団体)やアルペン協会(山岳会)においても、オーストリアの方が先に「アーリア化」されていったのである。

 では、なぜオーストリアの身体運動において、強力な反セム主義が台頭したのであろうか?

 この疑問に対するヒントを与えてくれるのがベッカーの著作である。彼は、ドイツ体操家連盟(DT)の第15支部を構成していたオーストリアの体操運動(ドイツ系)に着目し、当支部が「アーリア化」し、体操家連盟(DT)本部から脱退するまでの過程を詳細に扱っている。

 この第15支部において反セム主義が深刻な問題として立ち現れたのは、1886年、ウィーン第一体操協会が古代五種競技を企画したときであった(43-45)。この時、指導的メンバーの一人であったキースリング(F. X. Kiessling)がユダヤ人の参加を拒否し、協会内で大きな論争を巻き起こしたのである。そもそも、槍投げ、徒競走(約190メートル)、円盤投げ、幅跳び、レスリング、といった一連の競技が目指すものはバランスの取れた身体であり、その理想に近づこうとする者は誰であれ、競技への参加を認められるはずであった。だが、キースリングはこうした古代ギリシア人の夢をドイツ人のナショナリズムと結合させ、調和のとれた身体を復活できるのは「アーリア人」のみ、と訴えかけたのである。

 この時点では、キースリングの反セム主義は「スキャンダル」となり、「世紀の汚点」と見なされてしまう。ところが、翌87年には大量の反セム主義的学生をウィーン第一体操協会に入会させ、規約改正に必要な支持票を得たかと思うと、すぐさま「アーリア条項」を導入してしまったのであった(49-50)。その結果、当体操協会からの脱会を余儀なくされたのは1100名中、約480名。マイナーであったはずの反セム主義路線を体操運動の表舞台へとのし上げる「離れ技」であった。

 もちろん、こうした「事件」がすべてのきっかけではない。だが、ドイツ系体操運動における反セム主義は、ウィーン第一体操協会の「事件」を皮切りにして、急速にオーストリア全土(現在のチェコも含む)に浸透していく。そして、1901年5月。ウィーンで行われた第15支部の総会において120対15の賛成多数で「アーリア条項」が採択され、「自由派」の体操家、すなわち、ユダヤ人と反ユダヤ主義に与さない者、あわせて七千名余りのメンバーが第15支部から追放されたのであった(111-113)。ドイツ体操家連盟(DT)執行部は、1904年、その「自由派」を「救済」するために彼らを第15B支部として組織に組み入れたが、今度は第15支部が反発し、体操家連盟(DT)から脱退してしまったのであった(127-134)。オーストリアにおけるフェルキッシュ(=反セム主義)な勢力と体操家連盟(DT)執行部との対立は、ここにおいて頂点に達したのである。

 さて、この「フェルキッシュ(volkisch)」という言葉についても、ベッカーは興味深い事実を取り上げている(21-23)。この言葉は、15世紀頃から使われており、1811年にはフィヒテによっても使われているという。だが、体操運動の中で、しかも、反セム主義的な意味でこの言葉を最初に使ったのは、キースリングであった。1897年のことである。また、オーストリアの体操家の間で使われ始めた「フェルキッシュ」という言葉が、ドイツ帝国においてはまだ定着しておらず、体操家連盟(DT)の機関誌においてクエスチョンマーク付きで引用されたのであった。この点は、オーストリア・ドイツ系体操運動における反セム主義の強さを示唆する事実として見なすことができよう。  

 しかし、である。「ドイツ体操家連盟(DT)にオーストリアが含まれていなければ、ドイツ帝国の体操運動はそれほど反セム主義に悩まされることはなかったであろう(33)」、というベッカーの主張は少々短絡的なように思われる。この点を検証するために、ここでベッカーのヨーン(Hans-Georg John)に対する批判を見てみることにしよう(90, 138-140)(2)。ヨーンは、体操家連盟(DT)執行部の反セム主義に対する批判が中途半端であったことを指摘し、それが体操運動における反セム主義の拡大を招いたと結論づけているが、ベッカーはその点を否定している。当時においては、ドイツ帝国の体操家たちの間でも反セム主義的な傾向が存在したのであり、徹底的に反セム主義を排除しようとすれば、かえって反セム主義の増長を招く危険性があったというのである。確かに、ゲッツ(Ferdinand Goetz)を始めとする体操家連盟(DT)の態度は首尾一貫していなかったかもしれない。だが、その微妙な舵取りが ―― ベッカーの主張によれば ―― 体操家連盟における更なる反セム主義の拡大を防いだのであった。

 こうしたベッカーの主張は、確かに的を射たものではある。しかしながら、彼の言うとおり、ドイツ帝国内の体操運動においても反セム主義が存在したのであれば、オーストリアにおける反セム主義の強さだけを強調するわけにはいかないであろう。もし、体操運動における反セム主義の元凶がオーストリアにあるという仮説を立てるのであれば、ドイツにおける反セム主義とオーストリアにおける反セム主義の比較検討をしなければならないはずである。だが、本書において説明されているのは、オーストリア・ドイツ系体操運動における反セム主義の興隆とそれに対する体操家連盟(DT)執行部の態度のみであった。この仮説に対する正当な判断を行うためには、ドイツ帝国内体操運動の反セム主義に対するさらなる実証的研究が必要であろう。  

 とはいえ、オーストリア・ドイツ体操運動における反セム主義の実態を解明したという点では、本書は評価されるべき研究である。オーストリアのドイツ系ナショナリズムと反セム主義の展開過程において、体操運動の果たした役割が決して小さくないことを考えれば、なおさらであろう(3)

 2001年6月5日記
 

  1. Peter Pulzer, The Rise of Political Anti-semitism in Germany and Austria, London, Peter Halban, 1964, 1988 (Revised edition), pp.218-219. 細かいことであるが、ユダヤ人独自の徒歩旅行団体「ブラウ・ヴァイス」が1912年に設立されたこと等を考えると、オーストリアのワンダーフォーゲルが1913年にユダヤ人を追放したという Pulzer、およびラカーの主張は誤りのようである。この点ではモッセの主張する1911年が正しいのではないかと思われる。ウォルター・ラカー, 西村 稔訳 『ドイツ青年運動 ―― ワンダーフォーゲルからナチズムへ』 人文書院, 1985, p.104. ジョージ・L.モッセ著, 植村 和秀, 大川 清丈, 城 達也, 野村 耕一訳 『フェルキッシュ革命 ―― ドイツ民族主義から反ユダヤ主義へ』(バルマケイア叢書10), 柏書房, 1998, p.236. <戻る>
  2. Hans-Georg John, Politik und Turnen: Die Deutsche Turnerschaft als nationale Bewegung im deutschen Kaiserreich von 1871-1914, Ahrensburg bei Hamburg, Czwalina, 1976, esp. pp.64-72. なお、本書は、ドイツ体操運動におけるナショナリズムを見るうえで基本となる文献である。<戻る>
  3.  
  4. 例えば、汎ドイツ主義についての古典的研究であるホワイトサイドの著作においても、体操運動に関する記述には事実誤認が多い。汎ドイツ主義のリーダーであったシェーネラーが体操運動においても大きな役割を果たしていたにもかかわらず、である。Andrew G. Whiteside, The Socialism of Fools: Georg Ritter von Schonerer and Austrian Pan-Germanism, Berkeley/ Los Angeles/ London, University of California Press, 1975. なお、シェーネラーと体操運動との関わりについては、以下の文献が詳しい。Franz Benda, Der Deutsche Turnerbund 1889: seine Entwicklung und Weltanschauung, Wien, VWGO, 1991, (Dissertation der Universitat Wien). <戻る>


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