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第一次世界大戦のインパクト
ラヴェルとストラヴィンスキーに見る歴史の断絶と連続


 [プロローグ〜「ラ・ヴァルス」のうねり]

 ...はるか彼方からウィンナ・ワルツの調べが聞こえてくる。どうやら舞踏会が開かれているようだ。着飾った人々がおしゃべりに、そして踊りに夢中になっている。19世紀の古き良き世界。だが、何か別の音も聞こえている。コントラバスがうねりを発しているのだ。地の底から聞こえてくるその叫びは次第に音量を増し、高音楽器へと伝染していく。トランペットがそのうねりを引き継いだとき、ワルツはすでにワルツではなくなっている。踊り狂うオーケストラ。そこにはもはや旋律はない。最後には、ワルツの根幹である三拍子が破壊されて曲は止まる。後に残されたのは、ウィンナ・ワルツに象徴される古き良き世界の亡骸でしかない。


 第一次世界大戦の直後に作曲されたラヴェルの「ラ・ヴァルス」はこんな作品である。これと同時期に作られた「ボレロ」も「ラ・ヴァルス」ほどではないにせよ、かなり変わった曲と言える。全く同じ旋律が繰り返され、音量だけが増していく音楽など、戦前には考えられなかったからだ。そして、音量が極限に達すると、オーケストラは脈絡もなく転調し、最後にはがらがらと崩れ落ちるかのように曲が終わる。「ボレロ」を失敗作だと考えていたラヴェルは、この曲を絶賛する聴衆の態度が理解できなかった。「なぜ、この曲が良いのか? なぜ?」   結局のところ、彼は、無意識のうちに戦後の時代精神を体現する音楽を創りだしていたことに気づいていなかったのだ。

 古き良き世界を崩壊させ、新しい時代をもたらした最大の立役者はなんと言っても「あの大戦争(グレート・ウォー)」であった。悲惨な塹壕戦を体験した者は、以前とはもはや違う人間、つまり、戦前の固定的な価値観には耐えられない人間として故国に戻ってきたのであった。ヨーロッパ各国ではこの時、相次いで普通選挙が認められたのも偶然ではないであろう。彼らは意識を持った人間として、戦後に開花することになる大衆政治、大衆文化へと参画していったのである。

 だが、この変化は予想されたものではなかった。戦争自体、本当に起こるとは考えられていなかったし、もし起こったとしても、それが人々の価値観を大きく変えるほどのインパクトを持つとは誰にも考えられなかったのである。確かに、19世紀末以来、ヨーロッパでは近い将来に戦争が起きるかもしれない、という憶測が飛び交っていた。だが、1914年7月29日の段階、すなわち、オーストリアがすでにセルビアに宣戦布告をした後においても、例えば、オーストリア社会民主党の指導者ヴィクトル・アードラーは「私は個人的には全面戦争が起きるとは考えていない」と言ってのけたのであった。いよいよ、戦地に赴く段になっても、兵士の多くは「クリスマスには帰ってくる」と言い残し、意気揚々と出かけていったのである。

 M. エクスタインズ『春の祭典』(TBSブリタニカ. 1991年)によれば、戦争が始まった年のクリスマスには、多くの戦場で敵兵同士の自発的な交流が行われたという(pp.159f.)。塹壕の中から出てクリスマスツリーを飾る兵士や楽器を奏でる兵士、中には、敵の塹壕に入り込んで語り合い、プレゼントを交換しあう者もいたらしい。だが、このような敵同士の交歓が発生したのは最初のクリスマスだけであった。極限状態に置かれていた兵士たちは、次の一年間の間に、クリスマスを祝い、敵と交流しようという気持ちを失ってしまったのである。この変化は、ただ単にクリスマスという慣習が停止したことを意味するのではなく、それまで彼らの行動様式を規定してきた旧世界の価値観がこの時点で崩れ落ちてしまったことを暗示してもいる。この大戦争は、人々の意識を変え、歴史の流れの中に大きな断絶をもたらす大きな役割を果たしたのであろう。ラヴェルの「ラ・ヴァルス」は、塹壕体験によって引き起こされたこうした人々の内面的変化をワルツの崩壊という形で象徴的に示し、戦前には存在し得なかったタイプの精神性を提示したのであった。

 しかし、世界大戦は歴史の流れに断絶をもたらした「突発事故」であったと本当に言えるのだろうか?   ストラヴィンスキーの「春の祭典」を聴くとき、私はその仮定に異議を申し立て、世紀末から戦間期までの時代を一つながりの歴史として解釈したいという誘惑に駆られてしまう。

 「春の祭典」は、1913年5月29日、パリのシャンゼリゼ劇場において初演された。目新しいバレエを期待して集まった聴衆は、苦しげな表情をしたファゴット奏者のソロに困惑する。「いったいこれは何だ?」  非難の口笛が鳴り、曲の「野蛮さ」に怒る観客が文句を言い始めた。ダンサーたちが舞台上でグロテスクな踊りを始めると騒ぎは一層大きなものとなる。ついでに言えば、この曲の初稿では、現在の改訂された版よりもはるかに複雑な拍子が指定されていたため、ダンサーに向かって振り付け師が舞台袖から大声で数字を叫んで指示を与えていたという。騒がしい公演である。当時の記録によれば、公演中に殴り合いが発生したり、暴徒と化した40名の観客が劇場から排除されたといった話もある。その内どれが本当でどれが嘘かは、今となっては確かめようがない。いずれにせよここで重要なのは、この「事件」が世界大戦の始まる一年以上も前に発生したという点である。

 この曲で「野蛮さ」を見せたのは演奏者やダンサーだけではなかった。曲に対する「野蛮な」反応を見せた観客もまた、一個のアクターとして「春の祭典」の特異さを強調する役回りを演じて見せたのであった。

 では、「春の祭典」とその初演は大戦争による歴史の断絶を予言する出来事であったのだろうか?   それとも、この「事件」は、すでに生じていた社会の変化を告知したにすぎないのであろうか?   もし、後者であれば、第一次大戦は、時代の変化を後押しする触媒の役割を果たしただけであり、戦争の有無にかかわらず、当時の社会は一つの歴史的流れの中にあったということになろう。だが、どちらが本当なのかは私にはよく分からない。


 [エピローグ〜ヒトラーへの序奏]

 ウィーンの社交界が舞踏会に酔いしれていた世紀末、街角では反ユダヤ主義的な宣伝が行われ、民族対立による暴動が発生するようになっていた。ツヴァイクは、1897年に発生した大規模な騒乱について次のように書いている。

政治のなかへの野蛮の侵入は、その最初の成功を書きとめることになった。協調の時代が非常な努力を払って糊塗していた、種族間と階級間の地下の裂け目や割れ目は口を開けて、深淵となり峡谷となった。実際、新しい世紀にはいる前のあの最後の十年間に、オーストリアにおいては万人対万人の闘争がすでに始まっていたのだ。  (『昨日の世界』、みすず書房、第一巻、p.105)

 その約十年後、画家志望であった若きヒトラーがウィーンに住み着き、美術の勉強を始めている。『我が闘争』で語ったように、ヒトラーがウィーンで自らの「世界像と世界観」を形成したとすれば、彼は、ウィンナ・ワルツの調べに混ざって聞こえていた地の底からのうねりを敏感に感じ取っていたに違いない。そのうねりは、第一次大戦を経てさらに数十年の後、ヨーロッパ中を席巻する巨大な波となって押し寄せることとなる。

 2000年3月15日記


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