「鳥が羽ばたく」とはこのような演奏を指すのだろうか? トン・コープマンがバッハのオルガン曲を弾いたときには、まさに鳥が羽ばたくかのような勢いで ―― つまりバッハ本人がそうであったと言われているように ―― 軽やかに両足が駆使されていたのであった(1999年6月9日. 札幌キタラ・ホールにて)。器用なものである。右手と左手、そして足が別々の旋律を担当し、別々に動かすというのはなかなかできる芸当ではない。しかしながら、複数の旋律を組み合わせて一つの曲を創ってしまうという J.S. バッハの才能も驚くべきものである。彼は、どのようにしてこのような多声音楽(ポリフォニー)を作曲していたのだろうか?
人間の眼は、先天的に遠近感を知覚することができないという話を聞いたことがある。生まれつき眼が見える人であれば、近くにあるものと遠くにあるものの区別は容易につくが、後天的に視力を獲得した人の場合はそうではないらしい。私たちは、意識的にせよ無意識的にせよ、訓練によってものの遠近を判断できるようになっているのである。その意味では、遠近法という絵画の技法が、近代初期において生み出されたという点にも納得がいく。それまでの絵画が、宗教的世界の描写を志向し、私たちが現に生きている世俗世界とは全く異質な空間を描いていたのに対し、近代的絵画においては「この世」が対象となり、奥行きを持った私たちの世界がそのまま描かれるようになったのである。
突飛な発想かもしれないが、バッハのポリフォニーには、こうした「奥行きへのまなざし」が作用しているように私には思われる。あくまで印象だが、平面的な思考法では、一つの旋律に全く他の旋律を重ね合わせることなどできないだろうし、そんなことをすれば、頭の中で旋律同士がぶつかって混乱してしまうであろう。複数の旋律が同じ瞬間に存在するためには、二番目以降の旋律が存在できる奥行きのある空間がイメージされていなければならない。また、第一の旋律が存在する此処と第二の旋律が存在する其処では、同じ時間が流れている必要もあろう。均質的な時間が機械的に流れていく「この世」。そして、奥行きを持った私たちの世界。こうしたものを知覚することで初めて、立体感を持つポリフォニーが生まれたのではないだろうか?
「この世」への眼差しは、小説の変化にも見て取ることができる。B. アンダーソンの書いた『創造の共同体』が正しいとすれば、近代的小説において描かれるのは、均質で空虚な時間によって支配される世界である。例えば、ある小説で男(A)とその妻(B)、Aの愛人(C)が登場したとしよう。Bが買い物に出かけている時、Aが密かにCに電話をするケース、あるいはAが仕事をしている時、Bがその愛人(D)と逢い引きするケースを考えてみる。この場合、AとD、BとCはお互いの存在を知っているわけではない。しかしながら、すべての状況を把握している読者も、そうではない小説中の登場人物も、A〜Dを含むすべての人間が同じ時間を共有していることを「知っている」のである。BとDがレストランで会っている時、周りのテーブルでは、同じように食事をし、会話を楽しむその他の人々がいることであろう。もちろん、彼らはこの小説では意味を持たないし、名前すら与えられない存在である。だが、レストランの客(E)やAとすれ違うだけの通行人(F)にしても、「この世界」に生き、他の登場人物と時間を共有している点では同じである。少なくとも、今の私たちが小説を読む時には、それを自明のこととして考えているのではないだろうか。
余談であるが、もし、近代的な小説が各登場人物=旋律によって織りなされるポリフォニックな構造を持っているとすれば、ポリフォニー小説の傑作であるミラン・クンデラの『不滅』は、究極の近代的小説ということになるであろう。もちろん、クンデラ本人は、小説の近代性を全く別のところに求めているけれども。
自然科学の分野における「この世」への眼差しとしては、言うまでもなくニュートンが発見した万有引力の法則が挙げられる。リンゴが木から落ちるのを見た ―― この点は本当かどうか分からないけども ―― ニュートンが、三次元空間としての「この世」の構造を自覚し、それを『プリンキピア』(1687年)として体系化した頃、J.S. バッハが生まれた(1685年)というのも偶然ではあるまい。そして、バッハのポリフォニックな作品が、奥行きを持つ世俗空間への眼差しを持ちながらも、基本的には神の世界を志向していたのと同様、ニュートンもまた、近代的な自然科学を追究する傍ら、真剣に神学を学び、錬金術の完成に精力を注ぎこんでいたのであった。その意味では、この二人の作品には、中世から近代への、すなわち、人々の眼差しを宗教的世界から世俗的世界へと転換する時代の変化が象徴的に示されていたのであろうか。バッハによって完成の域に達したポリフォニーには、そして、オリジナルに忠実な姿勢をとり続けるコープマンの演奏には、その点を考えるヒントが隠されているように思われるのだが。
1999年12月15日記、2000年3月15日一部修正