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チェコ社会における多極化とネイション形成
―― 近代的「市民社会」の形成と体操運動 ――


 本稿は、体操運動をはじめとする身体文化がチェコ社会のナショナリズムに与えた影響を明らかにすることを目的としている。

 まず第1章では、本稿の視角について説明する。フランス革命によって成立した近代的「市民社会」においては、「市民(citoyen)」であることと「ネイション=国民(nation)」であることが、国家の分裂を生み出すほどの政治的対立を生み出さずに両立したと言えるだろう。ところが、こうした「西欧型」ネイションに比して、中欧では「市民」であることと「ネイション」であることが深刻な矛盾を引き起こし、結果として国家の分裂を生じさせたのであった。ハプスブルク君主国は、そうした「齟齬」によって崩壊した最初の国家となったのである。

 その君主国の一部であったチェコ社会の場合には、近代的「市民社会」への移行期においてチェコ人とドイツ人という二つのネイション ―― ユダヤ人を含めれば三つのネイション ―― が登場し、最終的には社会を分裂させる方向に向かったのであった。本稿においては、体操運動を中心とする自発的結社に着目し、チェコ社会におけるこうしたプロセスの内実を明らかにしていくことになる。第1章では、その準備作業として、この社会におけるナショナリズムを幾つかの段階に分類し、ネイションの「分化」過程を概観する試みを行っている。

 続く第2章においては、本格的な結社活動が展開されるようになった1860年代に着目し、当初は存在していなかったチェコ人とドイツ人の差異が「発見」され、明確化されていく過程を明らかにしている。19世紀末のプラハで生まれた歴史家ハンス・コーンは、この都市がチェコ人とドイツ人の二つの空間に完全に分断されていたと回想しているが、同世紀半ばの段階においては ―― 少なくとも現在の感覚から見る限り ―― 両ネイションの違いはそれほど明確ではなかったのである。1860年代初頭のチェコ社会においては、各種の自発的結社がネイション別に組織され始めていたが、多くの場合、チェコ系結社とドイツ系結社の関係はそれほど敵対的なものではなかった。だが、1880年代以降は、チェコ人とドイツ人の差異が明確に意識されるようになり、結社レヴェルにおける両ネイションの関係も悪化していったのであった。ここでの目的は、チェコ社会におけるチェコ系とドイツ系への「分化」過程を体操組織の事例から明らかにすることである。

 第3章においては、体操運動における自己表象のメカニズムを探究していくことになる。ここでは、チェコ系の三つの体操団体、すなわち、ソコル、労働者体操協会、カトリック系体操団体によって発信されていたナショナル・シンボルを比較検討している。19世紀末の大衆化の時代においては、チェコ・ネイション内部における社会的亀裂が明確化し、ネイション概念そのものは多義化していったと言えるだろう。だが、それぞれの勢力が自らを真にナショナルな存在と位置づけ、「正当性」争いをする中においては、ネイションの実在性についての疑問は発せられなくなり、不問のまま放置されていく。つまり、ネイションという概念そのものは多義化しながらも、ネイションという共同体が実体として存在するという感覚だけは強化されてしまうわけである。ここでは、体操団体によるナショナル・シンボルに焦点を当てることにより、大衆化時代におけるナショナリズムのこうした特質に迫ろうとしている。

 第4章においては、体操運動における「我が祖国」の表象を扱う。交通手段やコミュニケーション手段が発達しつつあったとはいえ、19世紀後半においても、プラハを中心とするチェコ系多数地域のチェコ人にとって、後に「ズデーテン地域」と総称されることになるドイツ系多数地域は依然として身近な存在ではなかったのである。ところが、19世紀末より、ソコルをはじめとする各種の結社活動において、これらの周辺地域を「我が祖国」とし、そこに居住するチェコ系住民を「ゲルマン化の危険にさらされた我が同胞」と位置づける言説が積極的に発信されるようになったのである。ここでは、チェコ社会における「想像の共同体」の表象過程を体操運動の側面から明らかにしていくこととなる。

 第5章においては、ユダヤ人の動向に焦点を当て、彼らの置かれた位置からチェコ社会を逆照射していきたいと考えている。19世紀半ばの段階では、多くのユダヤ人が、事実上ドイツ人に「同化」していたのに対し、チェコ系勢力が力を持つようになった19世紀末においては、チェコ人に「同化」するユダヤ人が増加し、チェコ系ユダヤ人とドイツ系ユダヤ人との間での対立が生じたのであった。さらには、ユダヤ人をいわば第三のネイションとして規定するシオニズムも登場したため、チェコ社会におけるネイション化(国民化)のプロセスは一層複雑なものとなったのである。ここでは「筋骨逞しきユダヤ人(Muskeljudentum)」を志向するシオニズム系体操団体に着目し、彼らがどのようにして自己を規定し、何のために身体の鍛錬に向かったのかを探っていくことにしたい。

 第6章においては、チェコ社会におけるオリンピック運動に焦点を当て、ナショナリズムとグローバリゼーションの関係について見ていくことになる。サッカーのワールドカップやオリンピックを見れば分かるように、現在においては、体操やスポーツを始めとする身体文化とナショナリズムの結びつきは自明のように思われている。しかしながら、19世紀末の段階においては、オリンピックにしても、サッカーにしても、ネイションを代表して戦うという意識は希薄であり、スポーツにおいてナショナリズムが露骨に表出されることは稀であった。第6章ではこうした点に着目し、チェコ社会における言説を中心としながら、グローバル化するスポーツがナショナリズムと結びついていく過程を実証的に追っていくことにしたい。

 以上の考察により、チェコ社会における身体文化の全体像が明らかとなるだろう。特に、体操運動の拠点であった体育館は、幅広い階層の人間が出会い、お互いに語り合う一種の公共圏として機能しており、「大衆のネイション化(国民化)」において大きな意味を持っていたのであった。だが、チェコ社会において形成されていた公共圏は、当然のことながら単一のナショナルな公共圏ではなかった。ネイション毎による公共圏、そして階級や宗教に基づく公共圏が成立し、それらがせめぎ合う中でチェコにおける「近代社会」が成立していったのである。その意味では、19世紀後半において現出していたのは、ハーバーマスの言う理念的な公共圏ではなく、多種多様な利害やイデオロギーが並存する「複数性の公共圏」であったと言えよう。チェコにおいては、こうした公共圏の複数性が社会の「柱状化」をもたらし、共に「市民社会」的方向を向きながらもネイション別に「分化」してしまうという結果を生みだしたのであった。体操運動をはじめとする身体文化系結社は、広範な層を公共圏に引き入れ、彼らを精神的・肉体的に「市民」へと「改造」する一方、彼らを複数の公共圏に分断させてネイションの「分化」を生み出す役割も果たしたのであった。その意味では、こうした結社は、「市民」と「ネイション(国民)」の「齟齬」を生み出すうえで鍵となる立場にあったと言えるだろう。本稿が明らかにしようとするのはこの点である。

 2003年3月25日記


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