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おわりに(1) --- 「対抗共同体」としてのチェコ社会

ソコル運動とは一体何か? 
単なるアソシエーション(spolek)なのか? 否
では組織(organisace)なのか? もちろん!
しかしそれ以上のもの、機関(instituce)なのだ

ソコル運動とは、全くのところ、有機的な器官(ustroj)そのものである
霧の海(mlhovina)に迷い込んだ我がネイションの中において、
ソコル運動は、堅牢な核を成しているのだ

出典: Vidensky narodni kalendar, Vol.3, 1908, pp.131-132.
  (Cit. in Glettler1970, p.30).


 ソコルの創設者であるティルシュは、1873年、チェコ体操にとって初の体系書となる『体操の基礎』を著している。そこでは、徒手体操や器械体操、そのコンビネーションについての「新しい」体系、すなわち、「チェコ的な」体操が提示されたのであった。ティルシュの言葉を借りれば、それは「誰からの借り物でもない我々の」オリジナルな体操であった。さらに彼は、ドイツ体操の創始者・ヤーンが三十年戦争後に北ドイツへと亡命したチェコ兄弟団の末裔であるとも書いている。つまり、ドイツ体操もチェコ起源だというのであるが、さすがにこれは「勇み足」というべきであろう。いずれにせよ、ティルシュの行為は、体操の側面から「チェコ的なるもの」を創出しようとする「先駆的な」試みであった。
シュムペルク

北モラヴィアにおけるかつてのドイツ人都市、シュムペルク(独語名メーリッシュ・シェーンベルク)、1998年8月19日撮影。

 言うまでもなく、チェコ人とドイツ人の競い合いは体操だけに留まらなかった。例えば、チェコ人が優勢となりつつあったプラハでは、1888年に市議会からドイツ系の議員がいなくなったことに対抗して、ドイツ市政相談所[原語は Verein なので正しい訳語とは言えない]が設立され(1893年)、プラハ商工会議所でチェコ人が過半数を占めるようになったことに対しては、ドイツ手工業者協会が設立されたのであった(1884年)。いずれも「脅かされた」ドイツ人の利益を守るために設けられた団体である。だが、象徴的な意味を持っていたのは、やはりオペラハウスの建設であろう。チェコ語のオペラを上演するという目的でナショナル・シアター(国民劇場)が1881年に建てられたのに対し、ドイツ人側は、1888年に新ドイツ劇場を完成させ、こけら落としをヴァーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』で飾ったのであった。完成したばかりのナショナル・シアターが火事に遭いながらも、その二年後には再建してしまうというチェコ人の意気込みもすごいが、プラハのドイツ語人口(1880年当時)がたったの13.7%であったにもかかわらず、立派なオペラ・ハウスを造ってしまうドイツ人の力も大したものである。チェコ人の側が、各地から基金を集めてナショナル・シアターを建てたのに対し、プラハのドイツ人はいわゆる「ズデーテンラント」からはそれほど支援を得ていないことを考えるとなおさらである

 では、何故プラハ・ドイツ人は「ズデーテン・ドイツ人」から支援を受けられなかったのか? その点を説明するためには、ユダヤ人問題への言及がどうしても必要となる。
アウシヒ

北西ボヘミアにおけるかつてのドイツ人都市、ウースチー・ナド・ラベム(独語名アウシヒ、地図2)、1998年8月6日撮影。

 第5節でも述べたように、ヘプなどのドイツ人多数地域では、1880年代より反ユダヤ主義が高まりつつあったが、プラハではやや趣が異なっていた。つまり、この街ではユダヤ人勢力、あるいは古典的自由主義・非「反ユダヤ主義」的な勢力が強く、他の街のように明確な形で反ユダヤ主義や民族主義が出現することはなかったのである。その点は、ドイツ系の体操運動にも明瞭に表れている。プラハでは、反ユダヤ主義的な体操家たちが既存の協会を脱退して新たにフェルキッシュな体操団体を設立したのに対し、「ズデーテンラント」では、そのほとんどの場合、「非アーリア系」の会員が既存の組織から追放されたからである。ユダヤ系ドイツ人の「牙城」となっていたプラハは、「ズデーテン・ドイツ人」にとっては拒絶の対象であり、当然のことながら、「ズデーテン・ドイツ」の中心都市と言える存在ではなかった。他方、作家であったパヴェル・アイスネル(1889-1958)の言葉を借りれば、プラハ・ドイツ人にとっての「ズデーテン・ドイツ人」は「水たまりの蛙」であり、「泥臭い野卑な」連中でしかなかった。早い話、両者の間に、同じドイツ人としての強い連帯感が存在していたとはあまり考えられないのである。

 また、「ズデーテン・ドイツ人」という言葉にも注意が必要であろう。「ズデーテン」とは、元々ボヘミア東北部にある山脈を指す言葉であり、チェコに住むドイツ人全体を指す言葉として「ズデーテン・ドイツ」という言葉が初めて公の場で用いられたのは1902年のことであった。そもそも、チェコのドイツ人居住地域は --- 少なくともプラハから見て --- 周辺部に分散しており、中心となる都市を欠いていたのである。少なくとも第一次大戦までの時期においては、チェコのドイツ人は「ズデーテン・ドイツ人」としての意識をほとんど持っておらず、もっと狭い地域を単位にしたドイツ人意識、あるいはハプスブルク帝国のドイツ人としての意識、さらにはドイツ帝国をも含めた大ドイツ的な意味でのドイツ人、といった様々な意識が折り重なった複合的なアイデンティティーを持っていたのであろう。彼らの視線は、プラハではなく、ウィーン、あるいはベルリン、ドレスデン、ライプチヒ、といった方向を向いていたのである。

 チェコ人とドイツ人、そしてユダヤ人。結局のところ、これら三つのネイションが織りあわさった社会として、19世紀末のチェコ社会は成立していたのであった。もちろん、ネイション間の関係は対称的なものではなかった。チェコ人とドイツ人が対峙し合っていたとはいえ、彼らが頭の中で思い描いていた共同体空間には大きなずれがあったからである。当時のチェコ人は、「チェコ諸領邦」と呼ばれる「歴史的な土地」を「我が故郷」だと考え始めていたが、ドイツ人にとっての「故郷」は、少なくとも「チェコ諸領邦」ではなかった。また、社会的出自の違いが「我がネイション」に対する感覚に大なり小なり影響を与えていた、という点もおさえておく必要があろう。

 そしてユダヤ人。彼らもまた、ドイツ人とチェコ人というネイション意識の成立に伴って、自らの位置づけを明確にする必要に迫られていたのであった。19世紀半ばまでの時代においては、社会的上昇を望むユダヤ人は迷うことなくドイツ語の使用を選択したことであろう。そこにはドイツ・ナショナリズムとの連関性はなかったはずである。しかしながら、19世紀後半においては、自分の子供をドイツ語の学校に通わせるか、チェコ語の学校に通わせるか、という選択は、どのネイションを選ぶのか、という問題と直結していたのであった。プラハの中心部で商店を経営し、チェコ人の顧客を多く抱えていたカフカの父親は、「将来のために」自分の息子をドイツ語の学校に通わせていたが、その為に某かの苦労を抱え込んだはずである。

 また、1880年より10年おきに実施されるようになった国勢調査も、ユダヤ人の「中立」を阻害する一つの要因として働いたのであった。統計を取る際の基準として「日常語」が採用されたためである。元来は宗教的な存在であり、「ナショナルな言語」と呼べるものを実質的に失っていたチェコのユダヤ人は、この調査のおかげでドイツ人かチェコ人のどちらかに分類されてしまったのであった。だが、時が経つにつれ、自分がどのネイションに属するのかを表明するために、国勢調査を意識的に「利用」する人びとも増えていったことであろう。もちろん、これはユダヤ人に限った話ではない。ドイツ人であれ、チェコ人であれ、10年おきの「儀式」によって彼らはネイションというものに対して敏感になり、やがては、「日常語」の選択とネイションへの帰属を等値のものとして見なすようになったはずである。中には、実際の生活において用いるのとは別の言語を「日常語」として登録し、自らのナショナリティーを「偽る」者も多数現れたに違いない。いずれにせよ、社会の構成員全てに作用したという点において、国勢調査は、ネイションの意識を生み出し、増幅させる最大の装置であったと言えよう。
ユダヤ系体操団体

世界で最初のユダヤ系体操団体「コンスタンティノープル・イスラエル人体操協会」の写真、1905年頃。出典: Eric Friedler, Makkabi chai ―― Makkabi lebt: Die Judische Sportbewegung in Deutschland 1898-1998, Wien/ Munchen: Verlag Christian Brandstatter, 1998, p.15.

 では、1890年から1900年までの間に、実数にして4千名強のプラハ・ユダヤ人が「日常語」の登録をドイツ語からチェコ語へと変更したという事実については、どう考えるべきであろうか? 政治・経済・文化の各方面においてチェコ人が力をつけてきた、という現実に対する生活の知恵? ある程度はそうであろう。だが、この数の多さは、やはり、チェコ人として生きることを選択するユダヤ人が実際に増加したことを示しているように思われる。ただし、それはユダヤ人のチェコ人への単純な「同化」を意味していたわけではなかった。彼らの中には、ユダヤ人であることとチェコ人であることの両立を目指し、ユダヤ主義とチェコ・アイデンティティーの文化的・哲学的な統合を望んでいた勢力が存在していたのである。また、それとは別に、ユダヤ人という存在をチェコ人やドイツ人と同格のネイション、あるいは人種に「格上げ」しようとするシオニズムも世紀末に誕生していた。そして、多くのユダヤ人に見られた「自己憎悪(Selbsthass)」とでも言うべき反ユダヤ主義。実態はどこまでも複雑である。だが、ユダヤ人が抱え込んでいたアイデンティティーの迷宮にこれ以上深入りすることは止めておこう。本当は「筋骨隆々のユダヤ人(Muskeljudentum)」を目指すシオニズム系列の体操団体が誕生したという点についても言及したいのだが、話があまりにも長くなるので、それも別の機会に取っておくことにしよう。ここまでの記述において差し当たり重要なのは、当時のチェコ社会が、チェコ人とドイツ人、そしてユダヤ人も含めた複数のネイションが対峙する社会であったという事実、それ自体である。
「ドイツ人よ、ドイツ人のところで買いたまえ!」

北ボヘミアのトゥルトノフ(独語名トラウテナウ)の駅前に掲げられたドイツ語のスローガン「ドイツ人よ、ドイツ人のところで買いたまえ!」、出典: Cesky svet, 1914, No.31 (reprint in Jiri Pokorny, Cesky svet, (Vol.1, 1889-1918), Praha: Argo/ Paseka, 1997, p.8).

 しかしながら、「対峙する」ということは一体どういうことなのであろうか? 例えば、プラハ中心部の15の教区において、チェコ語とドイツ語の両方でミサが行われていたことから考えると(1902年)、都心部においてはかなりの程度、チェコ人とドイツ人が入り交じって住んでいたと推測される。カフカは、子供時代にチェコ語学校の前を通ってドイツ語学校に通学していたらしいが、そうした程度のチェコ人とドイツ人との接点は、少なからず存在していたものと考えても良さそうである。しかしながら、当時の社会において、チェコ人とドイツ人の衝突や暴力事件が日常的に発生していたと考えるのはあまり現実的な話ではない。確かに、政治的な対立がエスカレートした時には、街頭での衝突が発生し、投石や喧嘩などが生じることもあった。それに付随して反ユダヤ主義的な暴動が発生したというのも事実である。だが、そうした事件はあくまで非日常の領域に属していたはずである。むろん、ネイション同士の「対峙」が完全に平和的なものであったというつもりは毛頭ない。が、政治的な言説とは裏腹に、実際の生活では某かの関係が継続されていたと見る方が自然であろう。「自分のモノは自分のところで(svuj k svemu)」というキャンペーンが張られ、ドイツ人の商店ではモノを買わないように、というボイコット運動が発生したときにも、なじみのドイツ人商店に行ってしまったチェコ人が少なからずいたはずだからである

 では、「対峙」が日常的な「直接対決」の形を取らないとすれば、チェコ人とドイツ人の関係はどのように規定されるだろうか? ソコルなどによる集団体操や祭典、街頭におけるパレードといった祝祭的な「自己顕示」であろうか? だが、そもそも祝祭とは非現実的な世界を演出するものであり、日常的な光景として現出されるものではない。もちろん、大衆がネイション化される過程において、こうした祝祭が果たす役割は計り知れないほど大きいし、まさにその点に着目したからこそ、筆者は体操運動を研究しているのである。しかしながら、祝祭的な「自己顕示」は、「対峙」の日常を構成する要素ではありえない。

 とすれば、日々の生活における「対峙」とは一体何であろうか? チェコ人とドイツ人の対立は、人びとの暮らしに少なからず影響を与えていたことは確かであるが、時折発生する衝突や非日常的な祝祭は、普段の生活においては意識の片隅に追いやられ、日常性の中に埋没していたはずである。相手方のネイションと仲良くつき合うわけでもないが、かといって、いつも角突き合わせているというわけでもない、そうした光景が、チェコ社会における日常を成していたのではないだろうか? 19世紀末にプラハで生まれた歴史家、ハンス・コーンは、「自発的な分離(voluntary segregation)」がこの街を支配していると書いたが、それは、「対峙」の内実を適格に表現した言葉であろう。20世紀初頭のプラハにおいては、学校や大学、劇場、コンサートホール、体操・スポーツ組織、居酒屋、レストラン、カフェといったものがネイション毎に分離し、それぞれの公共空間が形成されていたからである。

 かなり誇張を含んだ表現ではあるが、ユダヤ系のルポライター、E. E. キッシュ(1885-1948)は、チェコ人の市民がドイツ劇場に足を踏み入れることは一度もなかったし、その逆もなかったと断定している。例えば、誰か有名な歌手がチェコ人のナショナルシアターで客演するような場合、ドイツ語の新聞はそれを完全に無視したのであった。他方、ドイツ劇場で客演が行われる際には、一般のチェコ人はそれを知らずにいたのであった。あるいは、1882年にドイツ語部門とチェコ語部門に分割されたカール・フェルディナンド大学(現カレル大学)も、両者の「分離」を象徴する存在であった。例えば、市の中心部に位置する大学本部の建物は、分割後も共用とされたが、卒業式などに使われる大講堂などは奇数日にチェコ人が、偶数日にドイツ人が使う、あるいは、別の入り口から出入りするなど、両者がなるべく顔を合わせないように「配慮」されていたのである

 「自発的な分離」によって彩られていたチェコ社会。筆者は、この社会を歴史家、ヤン・クシェン(1930-)の言葉(konfliktni spolecenstvi, Konfliktgemeinschaft)を借りて「対抗共同体」と名付けることにしたい。「対立共同体」としないのは、この社会において恒常的に具体的な衝突事件が発生していたというイメージを与えたくないからである。結果としてこの社会は、第二次大戦後におけるドイツ人の追放という悲劇をもたらしたが、そこに至るまでの過程は決して直線的なものではなかったのである。とはいえ、筆者は、当時のチェコ社会が平和に満ちあふれた世界であったというつもりはない。筆者が望んでいるのは、チェコ社会の実態をなるべく正確に把握すること、それだけである。なお、「対抗共同体」はチェコ社会だけを念頭に置いた概念ではない。複数のネイションが共時的に存在する共同体すべてにあてはまる概念として想定された用語である。

 それでは、なぜ、エッセイをここまで長引かせてまで「対抗共同体」という概念を引っぱり出してきたのか? その点については、次の最終節において説明することにしよう。


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引用文献等