[目次] [次頁] [HOME]


マルチヌーとアインシュタイン ―― 社会と音楽と科学文明


 チェコの作曲家とはいえ、マルチヌーの知名度は今ひとつなのだろうか。毎年12月頃には、マルチヌー・フェスティヴァルがプラハで開催されるものの、客の入りはあまり良くないようだ。私自身は、今年はフェスティヴァルの最終日(1998年12月18日)しか聴いていないので断言はできないけども、会場のルドルフィヌムではかなりの空席が見られたことを考えるとどうやらそのようである。

 しかしながら、私自身も、それほどマルチヌーに肩入れしているわけではない。どちらかというと、チェコの作曲家だからという消極的な理由で彼の作品を聴き始めただけで、それも『キッチン・レヴュー』といったような些かおちゃらけた(?)感じの曲だけであった。円熟期に集中して作曲された六曲の交響曲群は、何だかとらえ所がなく、近寄りがたい印象しか残っていない。そんなことを以前、日本マルチヌー協会のある方にうっかり漏らしてしまったところ、「まだまだですね」と軽くあしらわれてしまったことがある。マルチヌーはまだまだ奥が深いらしい...

 ところが、演奏会の最中にプログラムの解説を見ていて面白いことを発見した。コンサートの最初に演奏された『喧噪』(La Bagarre, Vrava, 1926年)という一風変わった名前の曲は、解説によれば、近代科学が急速に発展し始めた1920年代の雰囲気を表しているのだそうだ。1927年にボストン交響楽団によって行われた初演が大変な好評を博し、マルチヌーが世界的に有名になるきっかけとなったことを考えると、この曲が表現している「喧噪」は時代の雰囲気と良くマッチしていたのであろう。もっとも、大西洋を初めて飛行機で横断した有名人、リンドバーグにこの曲が捧げられたという点が、初演の成功に一役買っているのではないかという気もしないわけではないが。

 実は、科学の発展に共鳴した曲は『喧噪』だけではない。例えば、オネゲルが最高速の蒸気機関車を讃える為に作曲した『パシフィック231』(1923年)や、第二次大戦で活躍したアメリカの戦闘機を賛美するマルチヌーの『サンダーボルト P-47』(1942年)が挙げられる。なかには、ミヨーによって書かれた連作歌曲『農業機械』(1919年)やロシア人のモソロフ(Alexandr Mosolov)によって作られた交響詩『鋼鉄の鋳物工場』(Slevarna oceli)(1928年)などというのもあるらしい。この辺りになると私の理解の域を越えてしまうが、当時においてはそれだけ機械文明に対する憧れが強かったのであろう。「モダン・タイムズ」礼賛といったところであろうか。

 マルチヌーは、科学によってもたらされた新時代を音楽によって表現していただけではなく、科学そのものにも興味を持ち、個人的に物理学の勉強もしていたらしい。残念ながら、「勉強すればするほどわけが分からなくなる」状態だったらしいが、彼の科学熱のすごさは伺える。1942年にマルチヌーがプリンストンでアインシュタインに出会ったときには、すぐに意気投合し、ヴァイオリンを弾く彼のために曲を一つ捧げてもいるのだ。しかし、マルチヌーは、彼の科学的理論だけに惹かれていたのではなかった。世界の構造はみかけほど確定的なものではなく発想の転換によって見え方が異なってくる、というアインシュタインの新しいモノの見方、つまり認識論にも惹かれていたのである。その意味では、アインシュタインもマルチヌーと同様、社会構造が劇的に変化しつつあった時代の精神を敏感に感じ取っていたのであろう。電話、電報、ラジオ、車、飛行機といった新しい道具がそれまでの空間や時間の感覚を根本から覆し、三次元空間の固定性が揺らぎつつあったまさにその時において、構造の絶対性を打ち砕くアインシュタインの認識論、そして、相対性理論が生み出されたのだから。もちろん、アインシュタインの理論の方がマルチヌーの音楽よりも遥かにインパクトは強かったが、結局のところ、社会の変化を反映する作品を生みだしたという点では、両者に変わりはなかったのである。

 しかしながら、この二人は、科学文明の到来を手放しで喜んでいたわけでもなかった。科学の発展と共に後退していく人間の精神。新しい生活のテンポについていけない人間の苦悩。そうした負の側面に対する憂慮の念を共有していた点でも二人は一緒であった。この日のコンサート・プログラムには『喧噪』初演当時のマルチヌーの言葉が引用されていたが、そこにも彼の不安感が明瞭に表れている。

『喧噪』は、動き、活力、喧噪、殺到といった雰囲気にあふれている。.... それ(喧噪)はカオスを表現しており、その中では熱狂、闘い、喜び、悲しみ、驚きといった感情が他を圧倒している。それ(喧噪)はカオスであり、大衆を前方へと押し出して単一の要素の中に追いやり、全く予測することのできない制御不能の出来事へとすべての人間を向かわせてしまうような共通の目的と目に見えない束縛によって支配されている。すべての関心事は、大きいのも小さいのも含めてあたかも重要でないものかの如く消え去り、その代わりに、新しい組成物の中に、力の新しい表現の中に、すなわち、力強くて無敵の人間大衆という新しい型の中に融合してしまうのだ。....

 この文章は、数年後に現実のものとなるナチスの政権掌握を予感させなくもない。しっかりとした形式に沿って書かれているとはいえ、この曲は一貫して速いリズムに支配されており、どことなく落ち着かない雰囲気を醸し出している。そして、何かにとりつかれたように前へ前へと進んでいく様は、自らが創り出した急速な生活リズムに引きずられていく人間の姿を表現しているかのようだ。

 しかしながら、科学文明の負の側面について考えるのは次の機会にしたいと思う。ただし、その時にはマルチヌーの作品よりもストラヴィンスキーとラヴェル、あるいはヴァーグナーの作品から考えてみたい。

 (付記)    この文章で言及したマルチヌーの曲は、次の CD の中にすべておさめられています。 Martinu: Works inspired by jazz and sport, Supraphon, Praha, SU 3058-2 011.

 1998年12月25日記、1999年1月31日改訂


[目次] [次頁] [HOME]