西ボヘミアにおけるかつてのドイツ人都市、カルロヴィ・ヴァリ(独語名カールスバード、地図6)、2000年7月5日撮影。 |
話の内容を今年のソコル祭典から別の方向に逸らしてしまうというのは、このエッセイを書き始める前から考えていた企てではあった。今現在、進行中の論文、および次に予定している論文の内容とエッセイの内容をある程度だぶらせることによって、論文の執筆スピードを上げてしまおう、という虫の良いことを考えていたのである。ところが、肝心の論文の方が遅々として進まなかったために、その不満をエッセイを書くことによって解消するという格好になってしまった。「ソコル見聞記+α」は、論文執筆を加速させる「触媒」ではなく、論文という「現実」から「逃避」する手段になり下がってしまったのだ。
論文が書けない、ということは、研究者としての人生に死刑宣告を突きつけられているようなものである。研究者としての存在は、結局のところ、書いたものによってしか評価され得ない。書き続けなければ、研究者は生きていけないのだ。その意味では、研究者にとって何よりつらいのは何も書けないという状況に陥ったときである。ホームページにエッセイを載せるという行為は、自己のアイデンティティーを確保し続けようとする一種の防衛行動であったのかしれない。もちろん、インターネット上でエッセイを載せたところで、研究者としての「業績」にはなり得ないのであるが。
話がまた逸れ始めてしまったようだ。どうやら筆者には本論から逸脱するという癖があるらしい。とにかく、今、必要なのは、論文本体を完成させることである。これ以上、「本業」から逃げ続けないために、エッセイはこれぐらいで終わりにしよう。今はただ、書き上げること。それだけである。
2000年7月1日〜9月17日にかけて断続的に記す。
完