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[都市史]ブラチスラヴァ=ウィーン間のトラムが復活?
― 「古き良き時代」へのノスタルジー ―


 年明けのスロヴァキア日刊紙各紙で報じられたところによれば,ウィーン地区鉄道(WLB,通称バーデン鉄道)がトラム路線をブラチスラバ(スロヴァキアの首都)まで延長する計画らしい(1月4日付SME等)。ウィーン地区鉄道は同市の国立歌劇場前から近郊のバーデンまで電車を走らせている会社であり,今回の計画では,ウィーン高速鉄道(S7)の終点ヴォルフスタールからブラチスラヴァ(ペトルジャルカ駅)までの7キロを新設し,ウィーン市内から同市までの路線を直結させることになっている。開通予定は2013年とされているが,高速道路との交差区間もあって費用が7千万ユーロかかると予想されており,実現するかどうかは依然として不透明である。

 なお,この路線は第二次世界大戦前にトラムが走っていた区間でもあり,スロバキアの政治家はオーストリア側の代表と会談するたびに同路線の復活に言及していた。ウィーン地区鉄道の計画によれば,このトラムは15分間隔で運行され,所要時間は一時間強となる予定。時間的にはバスや鉄道の既存路線と比べて大したメリットはないが,ウィーンの中心部まで直結する点が強みとなる。また,通過するウィーン高速鉄道のS7線は空港を経由する路線であり,ブラチスラバおよびウィーンの両市にとって大きな利点になると考えられている。図1は両都市間の路線図を示したものであり,上(緑色)と下(黄色)は既存の鉄道路線,真ん中が今回計画されているトラムの区間である(オレンジが既存線,青色が新設線)。

ウィーン=ブラチスラヴァ間の路線図
図1: ウィーン=ブラチスラヴァ間の路線図
出典: Pravda, January 5, 2008, p.10.
1917年の絵はがき
図2: カールトン・ホテル前(1917年)
出典: Cmorej (2004) p.172.

 実際のところ,両市は60キロほどしか離れておらず,歴史的にも近い関係にある。このトラムはオーストリア=ハンガリー二重君主国(ハプスブルク帝国)の時代であった1914年2月5日に開通し,ウィーンの中央税関駅(現在のウィーン・ミッテ駅)からブラチスラヴァのシャファーリク広場までの区間を1日6往復運行していた。このトラムのおかげでブラチスラヴァ近郊の農民もウィーンまで野菜を売りに行くことが可能となったが,片道で2時間45分もかかったらしい。今から考えればずいぶんとノンビリした話である。図2は1917年の絵葉書であり,フヴィエズドスラフ広場(当時はコッシュート広場)を通るトラムが写っている。背景のカールトン・ホテルは今も健在である。また絵葉書を注意深く見ると,レールが3本敷かれているのが分かる。このトラムに使われていた機関車と客車のレール幅は1.435メートルであり,1メートルしか幅がなかったブラチスラヴァ市内のトラムとはサイズが大きく異なっていた。そのため,市内のトラムと線路を共有する箇所では3本目のレールが敷かれていたのである。

 このトラムは第一次世界大戦後にハプスブルク帝国が崩壊してからも走り続けた。ウィーンは小国化したオーストリアの首都として,ブラチスラヴァは新生チェコスロヴァキアにおけるスロヴァキア側の首都として生まれ変わったが,両都市のつながりは従来通りに継続したのであろう。だが,オーストリアがドイツに合邦(アンシュルス)した1938年に運行が停止され,さらに第二次世界大戦後は冷戦が始まったため,国境地帯では線路そのものが撤去されてしまった(図1の青色部分)。両国が鉄のカーテンで遮られていた時代には,この国境を越えようとした人間が約400名殺害されている。シェンゲン域の拡大(2007年末)により国境検問がなくなってしまった今では考えられない話である。いずれにせよ,トラムを復活させようという計画は,「古き良き時代」における両都市の関係を取り戻す一助になるだろう。

 しかしながらここで気になるのは,このトラムがハプスブルク時代にできたという点である。 至近距離にあるとはいえ,片方の都市はオーストリア=ハンガリー二重帝国におけるオーストリア側の首都であり,もう片方はハンガリー側に属する都市であった。当時のオーストリア=ハンガリーにおいては両者の間に多くの争点があり,2つの都市をトラムで結ぶという計画にも様々な異論があったに違いない。以下,その点について見ていくことにしよう。

表1: ブラチスラヴァの人口統計
(母語/宗教,1910年)
出典: Babejová (2003) p.247.
 母語割合
マジャール語 30,01040.9%
ドイツ語 31,76843.2%
スロヴァキア語 9,81613.4%
その他 1,8652.5%
73,459100.0%
ユダヤ教徒 7,99410.9%

 表1は1910年の母語統計(+ユダヤ教徒の数)を示したものである。仮にマジャール語を母語とする人物をマジャール人,ドイツ語を母語とする人物をドイツ人という風に考えると,当時のブラチスラヴァは,マジャール人が40.9%,ドイツ人が43.2%,スロヴァキア人が13.4%を占める多民族・多言語都市であった。都市の名前についても,まだブラチスラヴァという名称は存在せず,マジャール語のポジョニ(Pozsony)かドイツ語のプレスブルク(Pressburg),あるいはスロヴァキア語のプレシュポロク(Prešporok)という3つの名称が存在し,街中では3言語が飛び交っていたという。当時のブラチスラヴァでは「朝はスロヴァキア語,昼はマジャール語,夜はドイツ語が聞こえる」と言われていたようである(Hanák 1992: n.p.)。朝は近隣のスロヴァキア系農民が野菜を売りに来るため,昼は役所勤めの公務員や学校の子どもたちが街頭に出てくるため,夜はドイツ系市民層がレストラン,カフェ,バーに繰り出すため,ということらしい。

 このブラチスラヴァにウィーン行きのトラムを開設しようとした理由は,何よりもまず経済的なものであった(Babejová 2003: 170-179)。1908年に始まったハンガリー議会(ブダペスト)の議論では,主として財界の人間がトラムの経済効果を力説している。彼らによれば,このトラムはウィーンの屋根付き市場(Großmarkthalle)に直結しており,沿線となる下オーストリアとブラチスラヴァの農民・職人・商人に大きな商機をもたらすはずであった。また,ブラチスラヴァの労働者がこのトラムを使って仕事を探しに行けるようになる他,乗客が大幅に増えて困っている既存の鉄道路線(ブダペスト=ブラチスラヴァ=ウィーン間)も混雑が緩和される見込みであった。

 ところが,この計画に対してはハンガリー・ナショナリストからのクレームが付く。ブラチスラヴァはハンガリー西部の要として頑張ってもらわなければならないのに,これ以上ウィーンからドイツ的有害要素が持ち込まれるのは許せない,というのである。彼らによれば,依然として多数のドイツ人やスラヴ人が居住するブラチスラヴァはハンガリー的愛国心に欠けており,むしろマジャール化の促進をこそ優先すべきであった。或る論者はウィーンを巨大な吸血鬼にたとえ,獲物になった生き物は自らの血液循環を止め,より大きな血液循環のなかに組み込まれてしまうと述べている。つまり,ブラチスラヴァがトラムによってウィーンと結合するようなことがあれば,ブラチスラヴァは自らの血液を失い,自らの社会的自律性と個性を失ってしまうのであった。別の論者も身体的比喩を使いつつ,生物の血液が心臓に集約されるのと同様,ブラチスラヴァもハンガリーの中心,すなわちブダペストとのつながりを強化する必要があると述べている。その論者によれば,全ては国民的精神の最も強いブダペストから発すべきであり,当然のことながら血管たる輸送ネットワークはその方針に従って構築される必要があった。

 こうしたナショナリストの議論に対し,トラム支持派はどのように反論したのだろうか? 彼らはまず,ブラチスラヴァは充分にマジャール化されており,もはやドイツ的要素の増大を心配する必要はないと指摘する。彼らが根拠として提示した統計調査によれば,この都市は20年間の間にマジャール語を母語とする市民が40%も増加しているのに対し,ドイツ語やスロヴァキア語はほとんど増えていないからである。ここで興味深いのは,ブラチスラヴァ市民の中に自らの母語をドイツ語やスロヴァキア語からマジャール語にスイッチする者が多数見られたという点であろう。普段使う言語を切り替えるならともかく,自分の母語を途中で切り替えることなど不可能(なはず)だからである(この点について説明すると長くなるので,統計の問題についてはまた改めて触れることにしたい)。

 次にトラム支持者たちは,ドイツ語を使う市民であってもハンガリー的愛国心を有する点は変わらないと指摘した。そもそもブダペストにおいてもマジャール語のできない愛国者が多数存在するのであり,ブラチスラヴァにドイツ語話者が多いからといって,それだけで疑いの眼を向けるのは不公平ではないか。トラム支持者たちはそのように反論したのである。彼らはまた,以下のように持論を展開した。

 ... トラムが開通したからといって,ブラチスラヴァ市民が大挙してウィーンに行くわけではないだろう。ちょっとした買い物をするのに片道2時間半以上かけて行く物好きなどいない。運賃も安くはないから他文化の影響を受けやすい一般民衆がウィーンに行くこともないだろう。ウィーンにオペラを観に行く機会が増えればドイツ精神に毒されるというが,既にウィーン行きの蒸気機関車が運行されており,あちらで観劇する人のために午後11時にウィーンを出る「劇場列車」も走っている。トラムが通ったからといって何を心配する必要があるのか。...

 こうなってくるともはや何のためにトラムを通すのか分からないが,いずれにしても,彼らはハンガリー・ナショナリストを説得することには成功したようだ。1909年7月,トラムの計画はハンガリー議会によって無事承認され,第一次世界大戦が勃発する直前に全面開通となった。ここまで見てくると明らかなように,トラムをめぐる議論の中心となっていたのはドイツ人とマジャール人であり,スロヴァキア人は完全に蚊帳の外にあった。理由は簡単,この時代においてスロヴァキア人はブラチスラヴァの主たるアクターではなかったからである。だが,当時のブラチスラヴァを単純に民族別に色分けすることはできないだろう。トラムをめぐる議論は,ドイツ人とマジャール人の対立を反映していたと同時に,中央と地方,すなわちブダペストとブラチスラヴァの対立を映し出すものでもあった。集権化を進めるブダペストに抗して自らの自律性を維持しようとしていたブラチスラヴァにとり,ウィーンとの結びつきを強めるトラムは有効なツールとして機能したに違いない。

 現在のブラチスラヴァでは,ツイン・シティーというキーワードの下,ウィーンとの近さを売りにして観光客を呼び寄せようとしている(関連サイトはこちら)。その点では,ウィーンへのトラムは大きな意味を持っているはずだが,肝心のブラチスラヴァ市当局はあまり乗り気でないようだ。すでにウィーンへの既存路線が2本あり,新たにルートを増やす必要はないというのがその理由である。また,2015年に開通予定とされているパリ=ブラチスラヴァ間のTGV(European Commission 2007)に備えて,ブラチスラヴァ市内の鉄道網を刷新することに専念したいという思惑もあるようだ。TGVがスロヴァキアまで来るというプラン自体,信じがたい話であるが,これが本当に実現するのであれば,トラム計画などは簡単に吹き飛んでしまうだろう。TGVに比べればウィーン行きのトラムは過去へのノスタルジックな思い出にしか過ぎないからである。

 2008年2月17日記


【参考文献】

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